ファンタジーから数世紀
私の朝は早い。かなり早い。
陽が頭を出す前にはもうベッドから出ていると言えば、その早さが分かるだろう。
習慣として身に付いたそれは、近所迷惑にならないよう音を調整した目覚まし時計も既に必要ない程、今まで見事に身体に染み付いていた。
寝間着を脱ぎ捨てて浴室に入り、魔石照明の明かりを点けるとシャワーを手早く浴びる。眠気から覚めてすっきりさせた後の余韻にも浸らず、さっと身体を拭いて下着の上にシャツと仕事着のズボン姿に着替えた。
洗面台の前に立ち、魔石駆動温風機で肩まで伸びた髪を乾かしつつ、口に水を含んで軽く口内と喉を洗う。朝の身支度をほとんど終えれば、他人よりずっと早い朝食の時間だ。
昨夜作っておいたサンドイッチを、冷気放出の魔術を内蔵している冷蔵庫から取り出し机の上に置いておく。冷えたパンと具がのろのろとした速度で常温へ向かっている間に、私は茶褐色の仕事着に袖を通しボタンを留めた。
ここで窓を一瞥する。既に空が白んでいた。
「今日も座って食べられないか……」
溜息を吐いて椅子に置かれた革鞄を左手で、右手の方はサンドイッチを掴む。行儀悪く立ったまま微妙な温度の朝食に齧り付いた瞬間、街中を叩き起こす耳障りで心臓に悪い音色の目覚ましが喧しく叫び始めた。
うぅぅんうぅぅぅぅぅ!
響き渡るサイレンを聞きながら思わずぼやく。
「傍迷惑な定期便だ、定休日ぐらいあれば良いものを」
一気にサンドイッチを口に押し込み、外套掛けに掛けられた軍帽を手に取り頭に乗せた。
自室を出ると、右足を庇いつつも足早に自分が住む官営共同住宅の階段を、軍服姿の他の住人達と共に下りて、近所の地下壕を目指す。
玄関脇に貼られたポスターの『灯火管制! 明かりを漏らす者は敵に情報を漏らしている』という文言の前を通り過ぎた時、遠くからくぐもった爆音や轟音が聞こえてきた。
ガラスが黒く塗られたドアを開けば、空から死が降ってくる空襲の真っ只中に足を踏み入れる。
遠景を見れば空飛ぶ戦艦の様な飛空艇が悠々と天を行き、腹から爆弾を吐き出していた。やがて、地上から光の玉が打ち上がり飛空艇の近くで炸裂し始める。
「防空部隊は相変わらずの鈍さだな、新兵と旧式対空魔導砲揃いとはいえもう少し何とかならないのか?」
盛んに打ち上がる魔力弾の中を平然と進む敵国の飛空艇を睨んでいると、鋭い声が私の耳を引っ張った。
「大尉殿! そんな所に立ったままでは危険です! 早く防空壕へ!」
若い上等兵が青褪めた顔で駆け寄る。眼鏡を掛けた少し気の弱そうな印象を受ける彼は、私付きの従兵だ。眼鏡の奥にある目を焦燥で尖らせた彼に、私は敢えてのんびりとしてみせる。
「おはよう。何、ここは魔術障壁の内側だ。百や二百ポンド程度の爆弾ぐらいは平気だから慌てる必要はない」
ガス弾や専用の対障壁弾には無力である事は口にせず余裕を披露すると、彼も落ち着きを取り戻す。
「ですが安全とは言い切れません。さっ、こちらへ。右足御気を付けて」
そう言って私の鞄を預かると、私を近場の防空壕へと導いていった。
勇者や冒険者といった英雄達が剣を振るい魔法を放って活躍した時代は、とっくのとうに歴史の話。
魔術の発展によって才能や素質に依存した魔法や戦闘技術は扱い辛くコストが掛かる存在とされ、代わりに安価で汎用性の高い兵士を揃える組織戦へと移行していった。
鍛治職人の魔法と経験によって鍛え上げられた武器も、大量生産の魔力銃などに代わり、使い手が限られる強力な魔法は、誰でも訓練次第で扱えるようになる魔術駆動の兵器群に取って代わられる。無論、民生品においても同じ事が言えた。
全ての事柄で優れた個より一定の品質を備えた量が重視され、またその過程で民衆の力が増し、彼らに支えられた政府による統制も広がる。
かくして、勇者だの冒険者だのいう自分勝手な強者が跋扈する不安定な世界へ、民衆とその政府による安定が齎された。
しかし、勝手気儘に力が振るわれる事が無くなっても、争いが無くなるわけでもない。
異種族との融和が進む一方、民族主義も発芽した事に加え、歴史の遺物となりつつあった勇者や魔法が最後に投入された大戦争であらゆる大国は崩壊した。
そして大国から分かれた無数の国々が、それぞれの大義を掲げて争っては疲れ果てて和議を結ぶを繰り返す事になる。
歴史の授業でどことどこが戦ったのか覚えるのが苦痛になる程だ。大国の都合に振り回されなくなった代わりに、国家間の纏め役が居なくなり収拾が付かなくなったのである。
私の祖国が隣国と五度目の戦争に突入して八年、両国とも疲弊が目に見えてきたが、終わる気配は一向に無かった。
物資不足を始め人的資源の払底による老人や少年の動員、新聞の数頁を埋める戦死者名簿、顰めっ面の軍部と対照的にやたら威勢だけは良いマスメディア、挙げればキリがない。
軍人ながら、いや軍人だからこそ嫌になってくる。
本来の一般的な朝食時間になった頃、サイレンが鳴り止んだ。壕を出た途端、焦げっぽい臭いが鼻を刺す。
街の彼方此方で煙が立ち上り、瓦礫が散乱していた。が、人々は平静な様子で片付けを始めたり、互いの安否を確認している。
中には焼夷弾の破片や魔力弾を受けた敵飛空艇から落下した部品を“戦争コレクション”として拾い集めようとする子供達の姿まであった。
魔術障壁によって軍事施設や工場などは優先的に守られているが、街全体にはまるで足りていない。ここは地方都市の一つに過ぎない為、魔術障壁の設置も対空兵器も不十分なままなのだ。
それでも軍民問わず、ここの住人はへこたれずに生きている。
逞しい事にもう通常営業を開始している店舗(といっても配給制により営業出来る店は限られている)が並ぶ通りを歩いていると、従兵がぽつりと呟いた。
「何時も思いますが、ここの人達は強いですねぇ……」
「全くだ。聞いた話じゃ敵の爆撃艇が撃墜された時、脱出した敵乗員が駆け付けた住民にリンチされた事があったらしい。慌てて止めに入った憲兵まで殴られたとか、民衆ってのはやっぱり甘く見てはいけない存在だな」
彼は若干引いたらしく顔を痙攣らせる。本当の事を言っただけなのに。
他にも郊外の農村に落ちた敵の飛空艇乗りが農夫に農業用フォークで殺されたとか、その死体が村人達によって逆さ吊りで晒されたとかも聞いたが、見た目通り少し気が弱い彼には刺激が強過ぎるだろうから黙っておく。
私の職場である旅団本部に向かうついでに街を見回っていると、街角で人だかりと悲鳴を見かけた。
「どうした、何があった?」
人だかりを掻き分けて視界に映った防毒面姿の警察官に状況を尋ねる。警察官は私の階級章を見て緊張したのか声色を固くするが、淀みなく答えた。
「ああ、大尉殿。これ以上先へは行かない方がよろしいです。ガスですよ」
彼はちらりと背後へ振り返る。そこには泣き叫ぶ女性を、彼と同じ防毒面を付けた警官達が押し留めていた。
女性が駆け寄ろうとしている先には、蹲る少女とそれを庇う様な姿勢をした男性の石像が鎮座している。警察官が防毒面越しに苦い声で唸った。
「石化ガスです、時限式が炸裂したそうで……」
「石化ガスって……コカトリス弾か!?」
私の驚愕に従兵もそんな馬鹿なという驚きを浮かべる。
「コカトリス弾……コカトリスを始め石化作用を持つ魔獣の毒を使用した兵器の総称ですよね? 条約禁止兵器の筈では?」
「……いよいよ敵も形振り構わないという事だろう」
しかも嫌らしい事に、信管が時間差で作動する時限式だ。空襲が終わって安心した人々が防空壕から出て来るタイミングを狙ったに違いない。
目の前で石像と化している男性は、ヘルメットと防火服を身に付けている事から、空襲時に消火や救護、避難誘導を行う組織、防空団の一員だろう。
恐らく爆撃を受けた建物から時限式コカトリス弾のガスが吐き出され、それに気付かなかった少女を守ろうとしたが……といったところか……。
全ての大国が崩壊する直接的な原因となった大戦争。その後に開かれた国際会議によって成立した条約で禁じられた兵器の一つを繰り出すとは、反吐が出る。
まさかとは思うが、敵は人工勇者、現代では魔人化兵などと呼ばれる条約禁止兵器まで投入するつもりだろうか?
様々な人体改造や術式を施し、短命と引き換えに強大な力を有する魔人化兵は、かつて各大国が勇者の大量生産を目指そうとした上で生まれた非人道兵器だ。
生身でも一人で優に一個中隊と戦えたという彼らは、要人暗殺や破壊工作に絶大な効果を発揮して戦争を激化させたという。
また、精神を弄られて狂戦士と化した魔人化兵が大都市に投下されて、無差別な殺戮が行われた事例も記録に残っている。
「嫌なものだ、過去の遺物なんぞ残らず過去として消えれば良いものを」
私の吐き出す様な呟きが聞こえたのか分からないが、従兵は暗い顔のまま視線を地面へ落とした。
爆撃現場を離れて旅団本部に真っ直ぐ通じる通りに出る。通りを半ばまで進んだ時、ふと壁に並ぶポスターに足を止めた。
『勝利への近道! 戦時国債を買おう!』というポスターの隣に貼られたそれは、私が子供の頃からある国民的キャラクターが描かれたものだが……。
『みんな! 金属や油を軍に提出して国を守るお手伝いをしよう!』
子供から大人まで多くの人に親しまれるアニメーション映画のキャラクターが、笑顔でそんな事を言っている。
下には小さく『揚げ物に使用される油も精製する事で弾丸の潤滑油などに再利用出来ます』と書かれていた。
「……キャラクターまで戦争協力か」
仲間達と愉快に過ごす彼は悪戯好きだが、争いや暴力を好まない性格だった筈だ。そんな彼も戦争に協力させられている。つくづく嫌になるな。
「大尉殿……? どうかされましたか?」
「いや、何でもない」
私は軍帽を深く被り直して再び歩き出した。
街の中心部にある煉瓦造りで三階建の建物、それが街とその周辺地域を守備する歩兵旅団の本部であり、私の職場でもある。守備と言っても、後方に位置するこの街でやる事は防空戦闘と物資管理ぐらいなのだが。
そして時折、銃後で召集された兵を前線へ送る中継地の一つとしても機能する。
今日は新たに編成された連隊の一部がここを通り、前線に近い基地で完全編成されるらしい。
「というわけで前線へ向かう列車に載せる物資の確認に立ち合うぞ」
従兵を連れて駅舎に向かう。旅団本部からは馬車を使う事になった。物資統制による魔石節約の為、将校でも気軽に移動用ゴーレムは使えないのだ。
駅舎に到着するとかなりの賑わいに包まれる。駅舎では軍楽隊が勇壮な曲を奏で、銃を背負って軍服を身に纏う少年達が人々の歓声と旗の波の中を行進していた。
「確か新編の連隊は学生兵が主体だったか、全く」
長引く戦争により戦力の補充が急務となり、既に年齢や性別が徴兵の制約ではなくなっている。“武器が持てるなら戦える”なんて、旧時代の冒険者じゃあるまいし、軍人として全く苦々しい事だ。
馬車を降り、少し右足を引き摺る様な歩き方で駅舎に入る。軍服が目立つ……と言うより、茶褐色の中で平服が際立っている空間を進むと、私の顔と階級章、そして不自然な動きをする右足を見て周囲が俄かに騒めき立った。
囁かれる言葉は異口同音。
――数年前まで活躍した戦場の英雄ではないか?
憧れや僅かな同情の視線を無視して歩く私は、きっとこの上ない仏頂面だったに違いない。
英雄なんて冗談じゃない、生き残ろうと無我夢中で走り回っていただけだ。多くの部下の命と右足の自由を引き換えに押し付けられた称号なぞ、何の価値があるというのか。
不愉快な気分で駅舎内を通り過ぎ、貨物車の積み込みが行われている現場に立つ。木箱や麻袋がどんどん車内に運ばれていく様子を横目に、輸送担当官に声を掛けようとした――その時。
本日二度目の空襲警報が鳴り響いた。屋根の無い積み込み場から空を見上げれば、一隻の飛空艇がぼやけた姿で空を泳いでいる。
「認識阻害魔術!? 手間の掛かる魔術をこんな地方都市相手に普通使うか!?」
あまりな事に思わず叫んだ。だが更に驚くべき光景を目にする。
飛空艇から投下された物が、一度空中で静止し、くるりと向きを変えて真っ直ぐ一点へ向かって突っ込んでいったのだ。
「お次は“名前爆弾”だと!?」
人名を術式に組み込んだ魔術によって付近の同名に向かう特殊弾である。
よくもまあ高級品とも言える様な特殊な魔術をポンポンと使うものだと、恐怖が混じった呆れを胸に呆然としていたが、やがて傍観者ではいられなくなった。
飛空艇が落としていく一発が、こちらに鼻先を向ける。
「は?」
その“名前爆弾”は、明らかに私を目標としていた。蹴飛ばされたかの如く凄まじい勢いで、一発の細長い爆弾が迫って来る。
私の名前があの爆弾の術式に組み込まれているという事の心当たりは不本意だが、ある。そして避ける事など、不可能である事も瞬時に理解した。
理解した途端、一切の音が消える。自分に当たる銃砲弾は音がしないという話は本当だったんだと妙に冷静な自分がいた。いや冷静というより達観か。
恐ろしくゆっくりと感じる時間の中、私は瞼を閉じる。戦場から生き残ってしまった負い目から解放され部下の元へ逝けると思えば、何よりもう戦争から足抜け出来ると考えれば、不思議と安らかになった。
死が目の前に立っているのが分かる、それでいい。
私の安らぎは、背中を強く突き飛ばされた事と、足元から現れた激烈な衝撃に打ち破られ、意識と両足の感覚が吹き飛んだ。
「それで目が覚めたら、両足がすっかり無くなっていたの。まさか後にあの街が敵の攻勢正面になるなんて思いもしなかったわ」
私は皺だらけの両手を見つめながら呟く。感情が抜け落ちた様子の記者に一度視線をちらりと向け、再び口を開いた。
「あの場に残っていた飛び散った肉の欠片から、私の従兵の戦死が確認された。何故? という思いしか無かった」
腰から下が無くなっているも同然の下半身に目を向けて、溜息を吐く。
「死ぬのは私の筈だった。ずるいとも思ったわ、楽になれてずるいと。無様に生き残ってしまったと分かった瞬間、拳銃で脳幹を撃ち抜こうとも考えた。でも、そうするわけにもいかなくなった」
記者はメモを取る手も動かせずに聴き入っていた。また視線を向ければ、その唇はすっかり乾いている。
「彼の母親がね、言うの。『英雄である貴女を守って死んだ息子も英雄ですよね?』って、縋る様に。これで私は死ねなくなった」
水が飲みたくなったが、病室には私と記者の二人だけ。私の話を受け止める事に必死なところを見ると、水差しとコップを取って欲しいとは言い辛い。唾を飲み込む事で我慢する。
「だから仕舞い込んでいた勲章を引っ張り出して常に身に付ける様にした。彼は私という“英雄”を守って名誉の戦死を遂げたのだと、世界に示す為に」
私は右手側の壁を見上げた。病室の壁に掛けられた古びた茶褐色の軍服、それの胸元には交差した銃の上に一振りの剣が重なる勲章が輝いている。
「もう、それだけなの。私が生きてきた理由は。彼が生きて戦死した事実が決して無意味では無かったと、証明し続ける。それだけ」
私が記者の取材を承諾したのも、彼の生と死を後世に残せるだろうというそれだけの理由だった。記者の言う惨禍の記憶を継承するだの、当時の実態はどうだったのかだのはどうでも良かった。
「私が今も“英雄”を名乗り、周りもまたそう呼んでいるのもそれだけの事なのよ」
多分今の私の瞳は、がらんどうになっているのだろう。心と同じ様に。
でもおかしいとは思わない。死ぬ筈だった人間が生き残ってしまったのなら、心はとうに死ぬべき時に死に、空っぽの身体だけが残っているだけなのだから。
ふと、下らない考えが浮かんだ。そんな事はあり得ないと思いつつも、つい口にした。
「ああ……剣と魔法の世界のまま技術がずっと止まっていれば良かったのかしらね」
終戦の日に合わせての作品という事で、戦争関連の小説などから自分が受けた影響を大いに注ぎました。
数頁もの戦死者名簿は「兵士ピースフル」より
“戦争コレクション”や撃墜された乗員が住民に殺されるの元ネタは「機関銃要塞の少年たち」
キャラクターの戦争協力は過去にYouTubeで見かけた戦時中のディズニー作品から
主人公が死を受け入れた「それでいい」は半ノンフィクション南北戦争小説「少年は戦場へ旅立った」
“名前爆弾”の元ネタは第二次世界大戦時に各国軍が、航空爆弾に敵国で一般的な人名を「この名前の人間に当たるように」と一種のゲン担ぎとして書いていた事から
「子供は思ったことを言いよるわ。『大和に乗っていた人は皆死んだんじゃないんですか?』穴があったら入りたかった」――元大和乗員の証言
「生き残ってしまった自分より、あの時大和と一緒に沈んだ兄の方がずっと幸せだったんじゃないかと思う」――別の元大和乗員の証言
「あの子は男だから祖国を守らなければならなかったけど、あなたは女の子なのに…どうしても叶えて下さいってお祈りしてたことが一つだけあるの『もし負傷するくらいなら殺してしまって下さい。女の子が不具にならないように』って」――「戦争は女の顔をしていない」より、クラヴヂヤ・グリゴリエヴナ・クローヒナ上級軍曹(負傷による脳挫傷で片耳が不自由)の母が戦地から帰って来た娘に掛けた言葉