その8
凛然寺は目線ひとつ寄越さず厳しく言葉を投げる。
「いい玩具ができたか何か知らないが、浮かれるな。見苦しい」
「なんだ凛然寺。妬いてんのか。オイオイ。心配すんな。俺は凛然寺みたいなメスも好きなんだぜ」
「笑えないジョークは嫌いだ」
「そか。凛然寺でも笑うんか。笑ってるとこ見たことないけどな」
ネロはけらけらと笑い飛ばすと、人の倍はありそうな掌を僕に差し向けてきた。
「どうだポチ。俺らのどっちが凛然寺から笑いをとれるか賭けようぜ。勝負は明瞭。凛然寺を笑わせた奴が勝ち。わかったか?」
「……くだらん」
凛然寺は強く舌を打った。眉間にできた皺の深さが不快指数を物語っていた。
「ポチ。勝負だ勝負」
「しません」
「なんで。命賭けようぜ」
「賭けません」
僕はキッパリと断った。そんな些末な遊びに命を賭けて挑む理由などない。それにしても――命賭けるか、なんてセリフを聞いたのは小学生ぶりだ。かなり懐かしい。
「よーし、じゃあ俺からいくぞ」
「僕はやりませんよ! やりませんからね!」
「ロバはロバでも計算できるロバはなーんだ」
「え」
僕の目が点になった。これはいわゆる――なぞなぞ?
「そろばん」
「くそ。知ってたんか」
ネロは地団駄を踏んで本気で悔しがった。
「じゃあ次だ。いくぞ。世界的に有名なロバは何色だ」
「え。えと、ええと」
ロバ。世界的なロバ。騾馬とか駱駝とかそういった類だろうか。どれにしろ白か茶か黒以外にはないはずだ。――いや待て。仮に僕がいずれかを答えたとする。それがもしも間違っていたらどうしよう。間違えたら死ぬほど恥ずかしい。テストでほぼ満点を叩き出してきた僕が間違えるなんて自尊心が許さない。絶対に嫌だ。
ネロは片眉を吊り上げて憎らしく笑う。
「はいブブー。時間切れだな。答えはデニ色」
「何ですかそれは」
「知らねーのか? ロバート・デニーロって俳優がいるだろうが。世界的なロバはロバート。一番有名なロバートはデニーロだろ。デニ色。おら拍手しろ」
「しません」
ただのこじつけじゃないか。一瞬、正解を探せない自分を恥じたが、こんな正解ならわからなくて結構だ。
凛然寺は軽蔑を示すよう目を細めた。
「馬鹿らしい。なんと無価値な会話だ」
「んなこと言うなって。凛然寺も答えがわかったらポチを待たずに答えていいんだぜ」
「私は参加していない」
ネロは長い人差し指を立てた。
「んじゃ凛然寺に問題な。俺に欠けてるものなーんだ」
「……私に答えろと?」
「おうよ」
「そうだな。理性。知性。品位。教養と道徳心。秩序を重んじる気持ち。場の空気を読む力。感情の抑制。美しさ。内面の美しさ。羞恥心。高尚な志……」
「ブブーはずれ。てか、凛然寺よ。お前はどんだけ俺に不満があるんだ。理性と感情の抑制って同じ意味じゃないんか。せめて重複は省けや」
凛然寺はまつげを伏せて口を閉ざした。無視を決め込むらしい。
「じゃあポチが答えろ。俺に欠けてるものなーんだ」
「欠けてるもの……足りないもの……」
僕はぶつぶつと繰り返した。考えろ。脳をフル回転して考えろ。さっきの回答から察知して先読みすればいい。さっきは色を問われたが、回答は現存する色ではなかった。今回の欠けているだって、そのまま欠損を意味するとは限らない。
かけているもの。
欠けているもの。かけているもの。賭けているもの。それだ。それが正解だ。
僕は閃きのまんま早口で答えた。
「かけてるものはさっき言っていた、命でしょう! 事前にヒントを出してたんだ!」
「ブブー。まあ別に命賭けてもいいけどな」
ネロはあっさりと答えを却下した。僕は階段を踏み外したように体勢を崩す。そして顔面を真っ赤にしながら屈辱に耐える。――絶対に正解だと思ったから自信満々の顔でハキハキと答えたのに。
「ぼ、僕は命賭けてませんからね!」
「わかってんよ」
「ああそうですか。それなら良かった。僕は賭けに参加してませんから。ね。ね」
「馬鹿。賭けは続行だよ」
「え!」
「え、じゃねえし。ポチ、俺の問題に答えてたじゃんか。おま、適当に参加して適当に降りるなんざ、勝負として半端な真似は許されんのよ。大人は」
「僕は」
僕は大人なんかじゃ……そう言いかけた時、ネロの尖った双眸がぎらりと光った。
「大人の世界に足ぃ突っ込んどいて、都合のいい時だけ子供ぶるのは許さんからな」
「……はい」
自分が暴威に満ちた脅しに弱いことを、僕は初めて認識した。
これまで人に殴られたことがなかった。殴られる=痛み=恐怖=服従だと脳に植えつけられた今、僕は暴力の前に屈服する哀れで脆い少年に過ぎない。暴力は憎むべき呪縛だ。
ネロが角張った肩をひょっこり竦める。
「せいぜい考えて正解を出してくれや」
「え。正解を教えてくれないんですか」
「自分で考えな」
ネロは蜥蜴のような舌をぺろりと出して中指を立てた。くすくすと口許を押さえて笑う響子が舞台女優みたいに、派手に毛皮を翻す。
「じゃあ凛然寺。あとはよろしく頼みますね」
「了解」
凛然寺は無感情に応答した。ボタンを押したら反応する機械人形に思えた。
誘導されるまま隣の部屋までとぼとぼと足を運ぶ。囚人になった気分だ。断るキッカケがない。目まぐるしい一連の中で生まれた疑問を呈するタイミングを掴めなかった。
僕は契約書も交わしていないし、口約束すらしていない。なのになぜか北大岡響子のテストを受けることになった。なったらしい。どうもそうらしい。
待合室――響子に言わせると玄関――の業務机にいた清楚な美人の姿もなかった。
未夜さんは常駐じゃないのか。残念だ。僕は落胆する自分に気づき、慌てて心に浮かんだ彼女の残滓を打ち消した。
僕は検事になるんだ。
司法試験に合格する。
恋愛だとか青春だとか遊びにかまけて夢を投げ出したくない。そう無理矢理言い聞かせて頭をぶんぶん振った。
待合室の中央に立った凛然寺初音が、ゆるりと振り返る。
「既に聞き及んでいるだろうが、ネロは二百人を殺害して埋めた殺人鬼だ」
「はい」
とつぜん歯切れ良く声をかけられ、僕はたじろいだ。
「特殊検察官として、ネロにはどのような求刑が相応しいと考える?」
「さっきも答えたんですけど……当然死刑です。すぐに。遺族の気持ちを考えたら執行猶予はおろか、裁判の権利すら剥奪したいくらいです」
「遺族の気持ち?」
凛然寺は僅かに顎をあげた。
「はい。遺族にしてみれば憎悪の対象でしかなく、一刻も早くこの世から消えてほしいと願うと、僕は思います」
「短絡的だな。お子様すぎて話にならない」
「そんな! 僕は遺族の気持ちになって考えました。それだけでなく、基本的な司法の観点を踏まえて答えを出したつもりです」
「出したつもり……か」
凛然寺はくだらない戯言を一蹴するように、ふんと鼻を鳴らした。立てた親指を反らせてネロを示し、微弱に顔を歪める。
「あれは殺人鬼。文字通り鬼だ。気を許すな」
はい、と小さく返事したものの、ネロとどう接していいものか距離感を探れない。気を許す許さないで言えば、気を許すほどの仲には到底なれないと断言できる。
「鬼……」
「または畜生と言い換えても可だ」
凛然寺は口唇だけを器用に動かして、射るような目で僕を睨みつけた。
*