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特殊執行鬼 ネロ+  作者: 田中志摩貴
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その7


 口の端から泡を吹きながらひゅうひゅうと呼吸する。無意識に逃走しようと足を踏ん張るせいで、ソファに預けた背が良質な革に擦れてずるずる滑った。一気に嫌な汗が噴き出す。体温が上昇したのか室温が上がったのかさえ判然としない。

 ネロと呼ばれた邪悪な塊から目が離せなかった。

 平和な動物園で無邪気にはしゃいでいると、突如、獰猛な白虎が檻をやぶって飛び出してきた。そんな危機に似ている。いや、状況はもっと不利だ。相手との体格差を考えたら火を見るよりも明らかじゃないか。

 しかし数秒経過しても暴れる気配がないので、少しだけ冷静になる。奴が僕を殺すつもりならばとっくに仕掛けてくるはずだ。恥ずかしいほど荒くなった鼻息を整える。心の中で何度も何度も呪文を唱える。取り乱すな。とにかく落ち着け。現況を把握しろ。

 ネロがゆっくりと近づいてきた。彼の足取りは完全に僕にロックオンしている。一メートルほど離れた位置で、巨体を屈めながら僕を覗き込んできた。

 逆光が邪魔して表情を読みとれない。目を瞑りたくても瞑れない。涙目になった僕は、交差させた腕で額をガードしながら、口腔で「ごめんなさいごめんなさい」という念仏を反復させた。するとネロが、

「まみきせらそくにかち」

 意味不明な言語を発し、僕に手を差し伸べてくる。握手を求める仕草だろうか。自分は敵ではないと親愛を訴えているのか。

 叱られた子供のような上目遣いで怖ず怖ずと様子を窺うと、ネロが僅かに微笑む。

 さっきまでの禍々しいオーラはほぼ消失していた。今は逆に清らかな七色の光を帯びている。いや厳密な色彩はわからないが、辛うじて赤とオレンジと銀色だけは認識できた。

 僕は幾分か安心して、右手を伸ばす。

「あの、よろし」

 最後まで言い終わらぬうちに、左頬に重い音が走った。

 直後、打たれた衝撃で脳が揺れる。耳で知覚するというよりは物理的に皮膚が知覚したという方が正しい。僕は十秒以上、自分が平手を喰らったことを自覚できなかった。

 ようやく痛みが湧いた頃、静かに手をあてがう。

 大袈裟な瞬きをすると、頭上から哄笑が降ってきた。ネロが腹を抱えて笑っていた。

「このくそったれ。もしや俺と握手する気なんか。百年はえーよ」

 僕は目を丸めた。

 罵倒する言葉が流暢な日本語だったからだ。――喋れるらしい。

 改めてネロの姿をまじまじと検分する。男にしては長めのアシンメトリーヘアは黒紫に近い藍色の髪。全体的に鋭利な顔も、ネロの背負う刺々しいオーラや乱暴な言葉遣いに見事に合致する。なぜか、昔の学生服に似た詰め襟の上着を着ていた。

「あのよろしってアレか。花札に書かれてる文字のことなんか? 何が言いたいんだかなあ。馬鹿だろお前」

「黙れネロ」

 その時、低く抑揚のない声が割って入る。声だけじゃなく、黒ずくめの凛然寺がネロと僕の間に立ちふさがった。右手には三十センチの警棒を持っている。

「出過ぎた真似をするな」

 薄い背中にまとう、凛然寺の黒いコートが僕の視界を埋める。だから、凛然寺のセリフがネロへの注意なのか僕への警告なのかわからなかった。

 凛然寺は無愛想に指摘する。

「馬鹿者はお前だ。花札に記載された文字は「あのよろし」ではなく「あかよろし」だ。「の」に見える部分は変体仮名で「か」と読む。可だ。あかよろし。明らかに優れているという意味だ。意味も知らずに茶化すとは、ネロ、お前の方がずっと頭が悪い」

「そんなもん俺はどうでもいいんだよ」

 ネロは面倒くさそうに耳の裏を掻いた。

 凛然寺は警棒を戻すと、首だけで僕を振り返りキッと睨みつける。僕は自分の怯懦を見透かされたようで恥ずかしくなった。凛然寺は黙ったままネロの隣まで移動すると、機械的に腕を組んで、能面のような無表情に戻る。

「おいチビ」

 ネロがこっちを見たので、恐らく僕を呼んでいるのだろう。――チビか。これでも僕は年齢に見合う一般的な体格なんですけど。

「チビは殺人鬼を見るのは初めてなんか。そりゃそうか。まあそうだわな」

 ネロは屈託なく笑う。

 第一印象で与えられた、獣じみた狂気は微塵も感じさせなかった。

 僕は抜けかけた腰をあげて威勢良く声をあげた。万が一ネロに襲われても、寸でのところで凛然寺が救ってくれるだろう。と思う。思いたい。

「ぼ、僕はチビじゃありません」

「じゃあポチか」

「ポチでもありません! 僕にはハルという名前があるんです。姿見ハル!」

「わかったから落ち着けポチ」

「だからポチじゃありません! ポチは犬の名前です!」

「くだらん。人も犬も大して変わらんだろ。お前、漢字が読めるか? ちょい書いてみろや。人、大、犬。おおスゴイぞ。人が進化すると犬になったぞ」

 ネロは老獪な賢者のように呵々と笑った。

「人が成長して大。ポチをつけると犬になる。おい拍手しろ」

「しません」

 僕は言いながら頭が混乱した。

 ネロが放った不気味な殺気と人を平気で殴りつける傍若無人さ、そして軽口を叩く奔放さ――どれが主人格なのか、まったく掴めない。

 困惑していると、上品な笑声と拍手が聞こえてくる。響子だ。

「まあ。お二人とも気が合うこと。この調子だと仲良く任務を遂行できそうですね。良いことです。ネロがこうもあっさりと快諾するとは望外の喜びでしたわ」

「さほど悪くない」

 ネロは右手で顎を擦りながら、だらしない笑みで人を小馬鹿にする。

「人は誰でも魂に傷を抱えてんだ。それがどんなに小さくても、万人に傷がある。それぞれのヒビがある。模様とも印とも呼ぶ。どれどれ……ほう。どでかい亀裂が走ってるな。日本刀ですっぱり斬った太刀筋みてーな珍しい傷だぜ」

「貴重なのですか?」

「かもな。いい臭いがする」

 ネロがうくくと含み笑った。

 背筋が凍るような寒気を覚え、僕は自分を抱きしめながら身震いした。食われるのだと思った。魂だとか傷だとか、怪しげな単語ばかりが飛び出してくる。ここは本当に検察庁なのか、自分の正気を疑う方が先決かもしれない。


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