その5
「テスト」
僕は単純に言葉尻を鸚鵡返した。しかし根本的に、響子が何を言い出したのかまったく理解できずにいた。特殊検察官――頭の中で繰り返してゆっくりと噛み砕く。だが正解はない。わからないことを知ったかぶりするより、問い質す方が早道だ。
「あの、特殊検察官って何ですか?」
「難しいことではありませんよ。正しい刑に処すために検事として起訴か不起訴かを判断する役目です。ただし……特殊な事件を扱うと考えていただけると良いでしょう」
「や、あの、僕が質問したのは特殊な事件という部分ですけど」
「少しお待ちになって」
響子は立ち上がって毛皮を大きく翻すと、僕を無視して通話を始めた。
とつぜん置き去りにされた僕は、慌てて室内に目を走らせた。動揺すると、途端に部屋のすべてが怪しく見えてくる。不安に駆られ、無意識に非常口の確認をしていた。
「ええそう。未夜さん、今すぐ。ええ二人とも。そうです。呼び出してくださる?」
響子は丁寧だが女王然とした態度で指示する。
受話器をおくと、軽く首を傾けて微笑んだ。
「二百人を殺害した殺人鬼がいます。殺人鬼はすべての遺体を埋めました。さて姿見ハルさん。あなたは殺人鬼を起訴しますか? どのように求刑しますか?」
「にひゃく……」
一瞬だけ戸惑ったが、僕は毅然とした口調で叫んだ。
「もちろん死刑を求刑します! 一刻も早く極刑を与えるべきです!」
「そうですね」
響子は顎を引くように上品な素振りで首肯した。
「これもテストです」
「え。今のが?」
僕は呆気にとられた。何百人どころか、複数人を殺害した時点で完全に僕は死刑を求刑する。僕だけじゃなく、多分どの検事も同じ判断を下すに違いない。
現状を把握できず呆気にとられていると、音も立てずに引き戸が開いた。誰かが来た。獣の本能にも似た警戒心を強め、僕は反射的に飛び上がった。
現れた人影は全身が黒ずくめで、第一印象は死神みたいだなと思った。
眉上で揃えられた前髪と、顎ラインに沿って鋭角に垂らす髪型が一見カツラっぽい。
髪の色は濃い黒。眉も目も真っ黒なのに、口唇だけ色がなかった。まるで文句のつけようがない顔立ちは、見れば見るほど非の打ち所がない。ただし陶器みたいに表情がなく、顔面の筋肉繊維すら微動だにしなかった。
襟を立てた首もとから足首まで届く艶のあるロングコートを纏い、ちらりと覗くコート内の衣類や靴までもが黒かった。
彼女は響子の元へは行かず、扉の横脇に背を預けたまま腕を組む。こちらを見ることもしない。僕はごくりと息を呑んだ。美人の無言が放つ威圧感というものは、これほど凄まじいものなのか。正直に言うと、怖いだけで、あまり嬉しい経験ではなかった。
響子が掌を仰向けにして扉側を差し示す。
「彼女は凛然寺初音。わたくしの部下です」
「どうも」
どうにか挨拶の辞を口にしたものの、緊張のあまり声が裏返ってしまう。凛然寺は長いまつげを揺らして僕を一瞥したが、ただそれだけだった。
「そして……」
響子が言葉を紡ぎ終わる前に、もうひとつの人影が扉をくぐる。
僕は咄嗟に後退しようとして、ソファに尻餅ついた。距離を置きたかった。理由はわからないが、魂の底から沸き上がる声が「逃げろ」と叫ぶ。怖かった。――そう。無様に悲鳴をあげて四つん這いで逃げ出したいくらい、僕は恐怖を覚えたのだ。
線の細い二メートル近い巨躯が、身を屈めながら入室してくる。
男。たぶん巨人か悪魔だろう。何を着ているか認識できないくらい、彼の圧倒的な存在感に目を奪われた。
尖った瞳に射竦められる。
比喩ではなく目がぎらぎらと光っていた。
新品の画用紙のように白皙い顔。耳まで届きそうな裂けた口角を広げ、彼は不敵に笑った。その時、室内の空気が揺らいだ。彼を覆う空気の膜が幾重もの層を作り、それが湖面の波紋のごとく揺らめいている。
オーラというものを初めて目撃した。
不気味だとか畏怖だとか恐怖だとか、そういうレベルを超える異質な歪み。破裂寸前まで空気をつめた風船に押し潰されたような、銃口をこめかみに当てられたような、お前の命など如何様にも扱えるのだと、高みから宣告されたような捕縛感がある。
逃げられない。あれはどこまででも追ってくる。そう本能が判断する。歯の根が噛み合わず、悴むようにがちがちと鳴る。僕は何も出来ず身を竦ませた。失禁しそうだった。
そして僕に気づいた。
あれは人じゃない――。
震える足に力を込めて精いっぱいの虚勢を張る。だが膝が笑う。テーブルに足がぶつかるので、リズミカルなドラム演奏みたいだった。
「あれはネロ」
響子の声は現実味に乏しく、穏やかな風のように僕の耳を素通りしてゆく。
「さきほどお話した、二百人を殺害して埋めた殺人鬼です」