その3
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いまだ慣れない霞ヶ関のアスファルトを、スニーカーのゴム底で踏みしめる。天気予報通り、陽気のお陰で風がぬるかった。空は晴れやかなのに少しばかり気が重い。
霞ヶ関周辺はいつでも道路工事をしているし、威圧的な建物が多いし、薄暗い濃紺色のスーツを着込む大人ばかりで気後れしてしまうのだ。
目的地に到着すると、僕は足を止めて何度も何度も深呼吸した。最低限の清潔な身なりを心掛けたつもりだが、今一度服装の乱れや汚れをチェックしておく。緊張と不安のせいで息がつまりそうだ。
霞ヶ関一丁目――検察庁。
検察庁は個別に、最高検察庁、高等検察庁、地方検察庁、区検察庁が、それぞれ裁判所の本庁や支部として対応する行政機関である。
検察庁は僕にとって特別な機関だが、司法省における「特別の機関」でもある。
特別の機関とは国家の中核に担う省庁、または外局などから必要とされる場合に設置される機関の総称である。いわば準外局に相当するといえた。
司法試験に合格し、司法修習を経て司法省に就職するのが一般的だが、国家公務員資格を取って検察事務官となり、副検事となり、内部試験を経て検事になる者もいる。もちろん僕は司法試験からの正攻法しか頭にない。
いずれ毎日ここに足を運ぶことになるだろう。いや、絶対になってみせる。興奮に胸を高鳴らせ、僕は中央合同庁舎第6号館に歩を進めた。
封書の指示を確認しようと紙面を広げたところで、小柄な男性に声をかけられた。
人の好さそうな糸目と分厚い口唇が際立ち、顔にちぐはぐなインパクトがあった。肌や態度から察するに年齢は若そうだが、苦労が多いのか、白髪混じりの頭部が人生の悲哀を感じさせる。小柄なのに猫背だから尚更だ。
ろくな挨拶もできぬままエレベータに乗せられ、先導されるまま後をついてゆくと、男はある扉をノックした。
扉も廊下も、前に面接で訪れた時とは別の景色だ。とはいえ、前回の面接時も僕以外の人間は誰もいなくて同じくらい殺風景だったけど。
中から呼応の声が届くと、男はひとつ頷き、先へ進めと手首だけで誘導する。この部屋に入れというのか。ひとりで。この中に。室内と自分の鼻先を交互に指さしたジェスチャで質問すると、彼は穏やかな執事のように微笑んだ。
背中を押されるようにして恐る恐る入室する。
十二畳ほどの狭い個室。窓はなく、蛍光灯に照らされた室内は木目調の壁に覆われるシンプルなものだ。右手脇に備えつけられた机にひとりの女性が座っている。というよりも机以外には何もないと言っていい。今は誰も使用していないとされる、狭くて暗い学校の生徒相談室を思い出した。
二十代半ばと思しき女性は、黒髪を後ろでひとつにまとめた清楚な美人だ。事務官なのか秘書なのかはわからない。机上にはパソコンと電話と書類の山。室内には、彼女がキーボードを叩く無機質な音が響いていた。
ソファがないので座ることもできず、手持ち無沙汰な僕はキョロキョロと周囲に目を巡らせた。物色するものすらない質素さが恨めしい。これは何かのテストなのか。それとも僕の動揺を誘う罠なのか。
生殺しにも等しい状況に耐えられず、思い切って声をかけようと拳を握りしめる。それより早く、彼女が顔を上げて笑った。いかにも演技してますという笑みだった。
「前方の扉にお進みいただけますか?」
声は上品だ。
――違う。そうじゃない。そんなことはどうでもいい。
真っ先に彼女を品定めした自分に自嘲する。僕は「どうも」と呟いて、ぺこぺこと恐縮しながら歩き出した。
そして前方の扉とやらに目を馳せるも、肝心の扉が見当たらない。銀色のノブがどこにもない。僕は困惑した。扉がどこにあるのか、などと、わざわざ振り返ってまで質問するほどのことでもないし、第一、そんな格好悪い真似はしたくない。
聞き間違えたのだろうか。なら扉を何と聞き違えたというのか。――わからない。このままではマズイ。壁に到着するまであと少し。歩幅を小さくしたり、歩くスピードを遅らせるのにも限界がある。不自然にならない程度のさじ加減を維持せねばならない。
本格的に壁が迫ってきた。あとは僅かな猶予を残すのみ。やばい。ピンチだ。どこをどう見ても壁しか見えない。扉はどこだ。探せ。端から端まで隈無くチェックしろ。
血走った眼球をぐるぐる運動させると、僕はようやく答えの糸口を発見した。
「あ」
思わず小声が漏れた。反射的に自分の手で口を塞ごうとしたが、その行動によって、バレてもいないものが発覚する可能性が生まれる。恐らく聞こえてはいまい。僕はほっと安堵の息を吐き出した。
姿勢を正して、壁と同系色の茶色いプラスチックに指をあてがう。
前方の扉は――横開きだった。