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特殊執行鬼 ネロ+  作者: 田中志摩貴
27/27

その27 最終話



 帰宅後の父はスーツを吊したあとで、簡易な部屋着に替えてエプロンをつける。風呂を沸かすより晩酌より、まず家族の夕食を作るのがいつもの手順だ。父は十六年もの間、毎日欠かさず、ひとりで僕の面倒を見てきた。頭が下がる思いだった。

「おかえり。手伝おうか?」

「なんだ珍しいな。けどもう出来るから座ってなさい」

 棚から取り出した食器にあたたかい白飯を詰め込み、完成したばかりの白身フライときんぴらごぼうを乗せる。これでは、そこらで売っているのり弁と変わらない。

 手を合わせて、いただきますと唱え、忙しなく箸を動かす。

「ん。そういえば司法省はどうだったんだ」

「別に」

 僕は曖昧に誤魔化した。実際に目にしたこと、体験したことを話しても信じてもらえるとは思えない。この不安定な心をどうやって伝えればいいのか、皆目見当が付かない。

 母の写真立てを引き寄せた父は、腕で目を覆うような仕草でおいおいと嘆く。

「どうしよう沙織。うちの息子はこんな年で反抗期かもしれない」

「ち・が・い・ま・す」

 僕はフライに囓りつきながら、上目遣いで父の機嫌を窺った。通常通りだ。僕もいつもの調子で接した方がいい。大丈夫。僕なら平気だ。いつものように振る舞える。

「そんなことより僕に話があるんでしょ。母さんの話だっけ」

「……ああ」

 明らかにトーンダウンした声で父は俯いた。

 大丈夫。僕なら大丈夫。何度も強く自分に言い聞かせる。母とはいえ実際に暮らしたことがないし、記憶も残っていない。

 だが生身の母を愛し、とつぜん奪われた父の想いは――。

 父は表情をスライドさせるように暗から明へと顔を改めた。自在に仮面を付け替える役者のようだった。

「父さんが母さんと出会ったのは十八の時でな、彼女はそれはそれは美人だった。父さんは一目惚れだ。母さんだけが、こうパアッと輝いてて、我が目を疑ったよ。こんなに綺麗な女の子がこの世にいるなんて思わなかった。人生で一番の衝撃だった」

「またその話?」

 僕は呆れた顔を作って静かに箸を置いた。今の嫌そうな顔は建前で、僕はこの話が大好きだった。父がどんな時より楽しそうな顔で語るからだ。

「母さんはあんなに美人なのに特定の恋人がいなかった。というのも……」

「占いが好きだったんでしょ」

「そう。どの男とも相性が悪くて交際を断ってきた。だが父さんは相性がぴったりで、すぐに交際を快諾してくれた。あれは嬉しかったな。世界中の誰より幸運な男だと思えた。地に足がつかないまま出掛けたデートも楽しかった。あの写真で母さんがしている動物のブローチは、最初のデートで買ってあげた安物なんだ。以来どんな高価なプレゼントをしても母さんはあのブローチをしてた。あんなに子供っぽいアクセサリーなのにな」

 父は慈しむ眼差しを写真に向けた。

「僕も占いを信じるよ」

「どうしたんだ。あんなに馬鹿にしていたのに、随分と急な心境の変化だな」

 これまで僕は占いを信じなかった。遺伝子は信心まで関与しないようだ。

 しかし頭ごなしに否定するのも阻まれる。今日の僕の運勢はある番組では一位で、別の番組では最下位だった。肉親の仇を討ったものの気は晴れない。しかも結果的に重い業を背負ってしまった。これは奇しくも今朝の占いが当たったともいえる。

 微笑む母親の写真を見つめ、僕も心の中で報告しておく。

 お母さん。僕には友達がいませんが、何やらおかしな拍子で仲間ができました。

 もちろん応えはない。

「第一なんでパンダ? こんなブローチはダサくて誰もつけないってば。よくこんなもの贈ったね。僕に彼女ができても贈る勇気ないよ」

「なんだハル。冷たいこと言うなよ。母さんは気に入ってたんだぞ」

「間違いなく母さんしか喜ばないね」

 汚れた食器を珍しく自分で下げて、二人分を洗浄する。

 父はぶつぶつと写真の母に文句を垂れた。いつも父はこうして母に話しかける。何年も何年も、返事をしない母に向けて語り続ける。たぶん明日も明後日も来年もその次も。

「父さんの話ってそれ? ならもういいや。今度ゆっくり聞くよ」

「つれないなあ」

 僕は濡れた手をタオルで拭き、父の手から写真立てを奪って定位置に戻す。

 ちょうどその時、二階でゴトンと重たい落下音がして天井が揺れた。父が不思議そうに僕の部屋を見上げた。――あいつら、何してんだ。

 急いで父を立ち上がらせ、風呂場へと追いやる。

「ほらほら。さっさと浸かってきなよ。ゆっくり休んで」

「何だ。どうしたんだ?」

「いいからいいから」

 洗い晒したバスタオルを父の胸に押し込み、洗面所まで急き立てる。洗面所の扉を閉めてから、僕はほうと安堵の息をついた。

 鬼が部屋にいるなんて知ったら、父は心臓麻痺を起こして救急車行きだ。

 リビングに戻ると写真の母と目が合った。

 いつもと同じ、優しさに満ちた笑顔だった。

 色の剥げたパンダのブローチをポケットから取り出し、写真の隣にそっと添える。母の大切な大切な装飾品。値段は関係ない。これが手元に戻ってきて本当に良かった。

 それだけで大収穫だと思えた。払った代償を充分に補える価値だ。

 再び、二階でガタンと物音がする。

 うるさい。まったく何を騒いでるのか。僕は大声で叱りとばすために階段を駆け上がった。凛然寺を手本にして、きっちり奴らを躾けてやる。

 ――まあ。こう勇ましく覚悟するのと、実践できるかは別物だけど。

 呆れるほど部屋がめちゃくちゃだった。

 参考書の類は散らばっているし、中にはビリビリに破れている本もある。暁が剣に変形して、ネロがそれを振り回していたのだった。

 怒号を張り上げようと息を吸い込む。ネロがぴたりと静止し、剣先をこちらに向けて悪辣な顔でにやりと笑った。

 その時、一階から父の号泣が届いた。子供のように遠慮のない泣き方だった。

 たぶん母のブローチを見つけたのだ。

 糸がぷつりと切れて、積年の感情が一気に爆発したのかもしれない。それは悲哀の奔流と愛しい母への郷愁に思えて、きりきりと胸が痛んだ。


                                   了


・・・ストレスたまってたんだな

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