その26
*
帰路の地下鉄で頭を安めた。乗車率は三割足らずで座席もたっぷり空いていたし、激しくぶれる揺れが心地よい。まだ現実味がなかった。一気に多くを知り、あまりにも不可思議な事象を経験した。たぶん誰に話しても信じて貰えないだろう。もっとも、耳を傾けてくれる友達なんて一人もいないけど。
疲れて棒になった足を励まして自宅を目指す。今日は泥のように眠るか、頭に詰め込まれた情報が無造作に錯綜して、興奮状態が抜けないかのどちらかだ。
住み慣れた小さな一軒家を囲う、塗装の剥げた鉄柵を軋ませる。
玄関の短い階段を昇ることにもうんざりするほど疲弊していた。時刻はまだ午後三時。あれだけたくさんの出来事が目まぐるしく展開したのにまだ数時間しか経過していない。
今となっては、不自然な時間の流れをあっさり許容できる自分に苦笑する。
茶色のアルミ製のドアに手をかけた。
扉ひとつを隔てて世界が激変する。外は様々な思惑で構築された複雑な社会でも、この扉を潜れば、誰に気兼ねなく寛げる我が家だ。
施錠を解いて一歩を踏み入れると、靴を脱ぐ間もなく、何かが突進してきた。
「勝手にドロンして、めーんご!」
僕は重みを受け止められず、押されるまま扉に背を打ちつけた。慌てて足を踏ん張り、ノブに掴まる。死語が聞こえた。なるほど。働かない頭がようやく事態を理解した。
「おかえりんこ」
「なんで? なんで暁が?」
身長一メートル強の幼女であり、正体不明の生命体でもある暁が、僕の腰回りにがっちりと抱きつく。顔をあげると、詰め襟の巨人が天井の高さを気にして首を縮めていた。
先ほど東京拘置所から消えたふたりが、なぜか僕の自宅でお出迎えだ。
凛然寺の言葉を思い出す。
――二人の行方は帰宅すればわかる。なるほど。こういうことか。
もはや考えることも問い質すことも面倒くさい。
僕は靴を脱ぎ、二階の自室に入るなりベッドに雪崩れ込んだ。冷たい枕の感触が癒しを運んでくる。ふたりは悪びれる素振りもなく、ごく自然に後続してきた。
「もー。どーしてウチにいるんですかー」
「気にすんな」
「やー。そこは説明してくれないと困ります」
会話の労力を抑えるためにしばらく黙ったまま、ネロの言い分を受ける。
「ポチが命賭けたから、巣がわかった。わかったから来た。アレだ。命を契約したら、何となくふたりはひとつみたいな? 疎通みたいなモンができるわけよ。だからポチの家は俺んチ、みたいな? 多分ポチも、俺の要素が少しは混じったはずだぞ?」
「ああそれで」
自分の意思でもないのに、食い下がってまで凛然寺になぞなぞを出題したのはネロの血の仕業なのか。なるほど。何だそれ。できれば別の能力がほしかった。
僕は枕に顔を埋めて喋った。当然ながら声は曇っていた。
「パンはパンでもだべらでないパンはなーんだー?」
「フライパンだろ」
「ですけどー」
「ここまで初歩問題だとむしろウケるな。他にも沢山あんぞ。ショパン。ピーターパン。ルパン。A級戦犯。パンスト。パンツ。短パン。ジーパン。パンダ。パンジー。チンパンジー。ジャパン。サイパン。ピンポンパン。審判が頻繁に折半して食べるパン。残飯」
列挙された答えを吟味するのも面倒だ。
「答えは四億円のパンですー」
「何ィ。そんなパンがあるんか!」
「ありますー」
俯せで顔を隠したまま、僕は手をひらひらと泳がせた。
どんな大富豪でも四億円を払ってまで食べる代物は稀だろう。そんなパンが存在するかはともかく、問題自体、僕が考えたのではなく、ネロから継承した血が作った出題だ。真剣に問い質されても答えようがなかった。
「そういえば凛然寺さんから伝言を預かってます。三日。三日間だそうですー」
「三日! くそう。バレてたんか!」
ネロが忌々しげに怒鳴ると、ガチャンと何かを破壊する音がした。僕は一瞬で飛び起きた。ここにあるのは僕の私物だらけじゃないか。乱暴に扱われてはたまらない。
ベッドの足下にネロを座らせ、その膝の上に丸めた暁を配置する。とにかくネロの巨体が生み出す圧迫感が苦しかった。まるで他人の私室に思えた。
「何が三日間なんですか?」
「あん? 俺たち執行人は死刑執行のあと特別休暇を貰えんだ。いつもなら一週間はあるのに、今回はなんで三日なんだ。短い。納得できん」
「勝手に姿を眩ませた罰じゃないですか?」
「けどよ、俺たちはのんびり過ごしたかっただけだぜ。いつだって監視監視。たまにあいつらから逃れたって、んな悪いことでもねーだろ」
「暁はカッ飛びすぎたから、さすがにちかれたびー。おやすみぷー」
そう言い残し、猫のように丸まったまま目を閉じた。ネロが愛玩動物で撫でるように優しく手を揺らす。暁の口がむにむにと寝言のように動いた。
俄然、疑問に思う。ふたりの関係は一体どんな絆で結ばれているのだろう。
ネロが名を呼べば武器に変化するし、指令によっては防御の盾にもなる。そして――ネロは司法機関から監視されている。二百人も殺して埋めた殺人鬼なのだから当然か。
とはいえ根本的に、彼らは何なんだ?
凛然寺の忠告に従って、ネロの話を鵜呑みにすることはやめた。どれが正しいかを仕分けするのは僕自身の力量に委ねられる。だから僕は素直に質問した。
「率直に聞きます。あなたたちは何者なんですか」
「どういう意味だ、そりゃ」
「じゃあ質問を変えます。あの、その、暁は何者なんですか?」
「ああ暁な。珍しいだろ。物質に変化できる生き物なんざ、なかなかいねーしな。そうさなあ。暁は欧州とアジア圏の武器になれる性質をもってんだ。欧州とアジアの混血でありながら人と武器の混血でもある。まあ人間でいうところの化け物ってヤツだ」
信じがたい説明だが、実際に目にしているので反駁できない。
「じゃあ、あなたは何なんですか」
「俺か。俺は鬼だ」
ネロは大きく裂けた口を広げて、事も無げに白状した。
「おに?」
「ポチは本当に人の話をなーんにも聞いてないのな。何遍も凛然寺が言ってたろうが。聞いてなかったんか。俺は生粋の鬼。人を喰らう鬼。殺人鬼な」
特殊執行人ではなく特殊執行鬼――。
僕の驚愕を面白そうに眺め、ネロがくつくつと笑う。
「俺は生まれた時から鬼だから、いつか神になりてーの。神になりたいから、さんざん手を尽くしてみた。人も殺してみた。けど神になれねーんだ。なあ。どうしたら神になれるんか、教えてくれ。いったい俺に欠けてるものは何なんだ?」
顔は皮肉げに笑っているが声は切実だった。
人を殺しても神になれないと、僕は思う。それに神になる方法なんて知らない。ネロに足りないものなどわかるわけもない。凛然寺の言葉が今になって頭の奥で木霊する。
――あれは鬼だ。惑わされるな。
僕は幻影を払拭するようにぶんぶんと頭を振りかぶった。
「何を+すれば神になれるかなんて、僕にはわかりません。わかってるのは、今が完璧たりえないということです。殺めた人への贖罪が神への一歩かもしれません。特殊執行人として勤め上げることが手がかりかもしれない。……わかんないけど……たぶん……」
僕の声は悄然と萎れた。
凛然寺の忠告はきちんと受け取った。だがわかる。なぜだか今の僕にはネロが理解できる。血が繋がったとか契約を交わしたとか、正体は判然としないけど、ネロが抱える空洞に騒擾が渦巻いていることがわかる。ネロは自分なりに道を模索している途中なのだ。
神という字を書くには、
ネとロだけでは不十分で、
+がなければ神にならない。
だけど僕は思う。人は未熟で何かが欠けている。だから罪を犯す。事故も起きる。人を傷つける。この世におけるすべては不完全であることこそが自然ではないかと。
ネロは二百人を殺して埋めた。
昨日の僕ならすぐさま死刑を求刑しただろう。だが今は違う。別の答えがある。今なら遺族の気持ちになって考えることができる。今なら、すぐに死刑にはしない。
遺族ならば、犯人の命を奪うよりも先に身内の骨を取り戻したいと願うはずだ。
だから、犯人が遺体を埋めた場所を自供するまで執行させない。
こう考えられる自分は少しだけ融通のきく大人になったと思えた。ひとつ成長したということは、僕に足りない部分を埋めてくれたともいえる。
僕は緊張した筋肉を弛緩させて、壁に凭れかかった。
「じゃあ凛然寺さんは立ち振る舞いだけじゃなくて、文字通り鬼の刑務官なんですね」
「てか、あいつも鬼だし」
「え!」
僕は思わず頭を壁にぶつけてしまった。
「あそこまでいくと鬼の血はかなり薄いけどな。あいつら北大岡の取り巻き連中は、先祖のどっかに鬼が混じってやがる。俺から言わせりゃあほとんど人間なのによ」
生粋の鬼から見れば誰だって人間だろう。
「鬼を操る家系のひとつが北大岡な。あいつら人使い荒くてよ、実際やってらんねーよ」
「意外ですね。鬼が人より弱いっていうのは」
「馬鹿だなポチ。あいつらは俺の弱点をついてるだけ。汚ねんだ。卑怯な手だろ。あいつらひでえ人間だぜ、ほんと、あいつらこそ人でなしだ。ろくでなしだ」
凛然寺の言葉が耳に蘇る。――あれに耳を貸すな。
まずい。僕は胸騒ぎを覚えた。どんどんネロの発言が嘘なのか本音なのかが、区別できるようになってきた。毒されている。そう表現するのが適切かもしれない。
ネロがチチチと口内に舌を打ちつける。
「鬼が人に使役されるようになったのは、いつからなんかな。俺も自分がいつから北大岡と関わってるんかもう覚えてねーや」
「鬼はいつ生まれたんですか?」
「いつって何だよ。言っただろ。俺には時間の感覚がねェの。歴史とか時代とか、あんま重要じゃないかんな。ポチが教科書で習うような時代じゃねーのか。知らんけど」
「安倍晴明の平安とか?」
悪戯っぽく目尻をさげるだけで、ネロは否定も肯定もしなかった。
「鬼は死と密接に繋がってる。人間に生まれたくせにいつしか鬼になるヤツもいる。俺から見れば赤ん坊だけどな。そんくらい憎悪と死は鬼に近い」
「鬼子母神みたいな?」
ネロはまたも肯定も否定もなく話を続けた。まったく。本質的に鬼は自分勝手すぎる。
「ポチも死を間近に見ただろ」
「はい」
「人間は死を平等だと勘違いしてる。死だけは平等にやってくるものだと信じてる。けどそら間違いだ。死は平等なんかじゃない」
ネロは切れ長の双眸をぎらりと光らせた。
「蝋燭の火が途切れるように静かに消えてゆく老衰もあれば、突発的な事故による即死、さながら割れた風船みてェに弾ける命もある。死は平等じゃねェんだよ」
他人の手で無惨に命を奪われることもあれば、死刑になる者もいる。
「人そのものがエネルギーで、生きることがエネルギーな。だから死刑はいわば、風船を握りしめて力ずくで破裂させてるようなモンよ。その衝撃がエネルギーになる。俺らは、その膨大なパワーを使って時間を移動してンだ」
僕はただ頷いた。言葉が見つからなかった。
「だから死刑囚の命を使う。もし死刑が廃止されたら、そこらの人間の命を使わにゃならんくなる。てか、死刑廃止論を唱える人間もいるが、ありゃあ間違いも甚だしいな。俺は生粋の日本生まれの鬼だから、よーく知ってる。日本人は昔から、地域間や個人間で報復を繰り返してきたし復讐も認めてきた。それを咎める風潮が出てきたのは、ここ百年ちょいだろ。西洋文化に感化されてからだぜ」
「そうですね。今は欧州をはじめ、世界の三割が死刑制度を廃止してますし」
「な。だろ。そもそも日本人は、責任をとるために腹を切るような民族だ。切腹はわかるか? 自ら腹を切ると申し出る時もあれば、死刑として切腹を命じられることもある」
「はい」
「なら、なんで腹を切るか考えたことがあるんか?」
ない。非合理な手段だとは思う。
「本人に腹を切らせて苦しめるためだ。苦しんだ先の死を与えるためだ。慈悲として、別のヤツに介錯させることもあるけどよ、基本的には腹を斬らせて放置しとく。切腹したヤツはじわじわと死んでく。腐り果ててく。それが罪人に対する罰だ」
「残酷ですね……」
「残酷な人殺しをすれば残酷な死刑を突きつけられる。因果応報じゃねェか」
ネロは老獪な賢者のように闊達と笑った。
鬼は死に携わる領域を管轄とする。それを人間社会で例えるなら『司法』が該当するのではないか。司法は両翼を担う。人を裁くこともあれば人を救うこともある。なのに北大岡家は鬼の弱みを握って操縦し、死刑という暗部のみを鬼に押しつけるという。
僕は俯きながらぽつりと零した。
「鬼も大変ですね」
「おい他人事じゃねーよ。ポチも鬼だろうが」
「え?」
「契約したろ。俺の血が混じった以上、お前も鬼。どっちかっつーと、凛然寺なんかより濃い鬼になる。種類は違うけどな」
「え。え。何ですか。僕どうなっちゃうんですか」
「どうもしない。どうにもならない。ただ俺たちは繋がってる。どう化学反応を起こすかは俺にもわかんね。お前次第だろ。鬼になったからには、北大岡にこき使われることは間違いないだろうよ。せいぜい覚悟しとけ」
ネロの軽口に対して、僕は一切笑えなかった。
確かに命を賭けた。自分の命など捨ててもいいと思えた。それは、人としての輪郭を捨てる意味でもあったらしい。
僕は改めて自分の手足を確認した。どこにも変化はない。髪の色も普通だし、皮膚や呼吸も正常だ。だけど僕は生粋の人間ではなくなったという。実感はないけど。
暁はすやすやと眠っていた。
そこで思い出す。僕が帰宅した直後、暁はまるで父親を迎えるように抱きついてきた。
僕に悪態をつき、パシリなどと死語を用いて侮辱してきた態度からは想像できない変貌ぶりだった。なるほど。僕がネロの血を含んだから懐いてきたのか――。
僕はネロの横顔を窺った。
思えば、ネロの態度も随分と軟化した。話し方も接し方も、最初に顔を合わせた時とは比べものにならない柔和を帯びている。つまり僕は仲間だと認められたのか。――嬉しくないけど。しかし僕が、ネロに対して奇妙な連帯感を抱き始めたのも事実だ。
僕が鬼の仲間?
幼稚園の時に鬼ごっこをした以来、鬼になったことはない。
どうでもいいことで唸ると、階下で扉が開閉する気配がした。耳が敏感になった気がする。呑気に喜んだ数秒後、現在の奇怪な状況を整理して激しく困窮した。
時刻はとっぷりと陽の暮れた夕方。
まずい。父が帰宅したのだ!
ネロが顎を突き出して書架を見上げ、僕が収集した本の群れに目を馳せる。
「ポチは勉強熱心なのな。本がたくさんある。これ全部読んだんか」
「父が帰ってきたみたいです! 悠長に話してる暇はありません。とっとと帰ってください。今すぐ帰ってください」
「こんだけ読んだら足りないモンがわかるんかな。よし決めた。俺はここで三日間、ここにある本を読み尽くす。それが休暇だ」
「ちょっと! 何勝手に決めてるんですか! 僕の話、聞いてます?」
「司法の基本ガイド。民訴。刑訴。刑法事例教材。刑法を考える。こちゃこちゃと小難しくて小賢しくて面倒くせーな。これ面白いんか本当に」
立ち上がってもいないくせに、いつの間にかネロの手には僕の大事な参考書が収まっている。乱暴に扱わないでほしい。僕は恐ろしい瞬発力を駆使して、それを取り上げた。
「やめてください! 早く帰ってくださいよ!」
「うるせーうるせー」
叱咤を意に介さずに、ネロは耳の穴に指を突っ込んで目を逸らした。その時、タイミング悪くリビングから父の声が届く。僕を呼んでいる。
僕は分厚い本をまとめて、ドンと机に置いた。
「とにかく大人しくしててくださいね!」
「仲間だろ。もっと優しくしろや」
タチの悪い不良の口振りでけたけたと下品に笑う。骨までしゃぶられる気がする。想像してぞっとした。――あれは鬼だ。油断するな。
後悔しても遅い。凛然寺の忠告がようやく今になって身にしみた。




