その25
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最高検察庁は通称最高検と呼ばれ、最高裁判所に呼応している。
司法における最高峰とも呼べる領域であり、北大岡響子は最高検の次長検事に就いていた。これまで抜擢された人員の中で最年少記録を打ち立てたのが響子だった。
由緒正しき北大岡家は、代々司法機関の中核を支配する家系であるが故に、主立った親戚一同はみな司法関連に勤めている。
特殊司法チームの指揮を任されることは、北大岡家の当主の座に一歩近づいたことを示唆する。時間を有効に使い、適切な人員を送り込んで、ありったけのデータを収集するのが目的だ。今の部下たちは若輩者ばかりだが、思いの外、真面目に働いてくれる。
響子は壁時計をちらりと覗いた。予定より二分も遅れている。
「申し訳ありませんでし」
息を切らしたマーシャルが飛び込んできて、響子の足下に跪く。はあはあと乱れた呼吸を整えて、額から汗を流している。
「未夜さん」
響子が足を組んで名を呼ぶと、背後に控えた清楚な女性が部屋の灯りを消した。
「特殊班の足跡から見せていただけます?」
「承知でし」
マーシャルの右目から青白い光が放たれた。右目が映写機の役割を持ち、薄暗い室内の側壁に、凛然寺の顔のアップが映し出される。
特殊刑務官と特殊執行人と遺族代表兼特殊検察官と合流した時からずっと、マーシャルの右目は一部始終を記録していた。見たものを目線通りに録画する便利な能力を活かして特殊書記をこなしている。
ネロが声を荒立てて騒いだ時、珍しく響子が顔を歪めてパタパタと手で空を扇いだ。音声を下げろという合図だった。無駄な部分は早送り、丁寧に見直す部分は巻き戻しと、響子は細かく指示を繰り返しながら復路の東京拘置所まで目を通した。
「下品で騒がしくて、ネロは本当に目障りですね」
響子の顔は露骨に嫌悪感を振りまいた。
「次に右輪のデータを再生してください」
「承知でし」
マーシャルはそそくさと自分の顔を覆う眼帯を外した。
眼帯で隠していた左側の瞼を自分の指でこじ開け、空いた右手を眼窩に突っ込む。マーシャルは器用に指を動かして眼球を引きちぎった。そうして血と肉片と繊維が滴る眼球を丸飲みし、生卵のようにごくりと嚥下する。
次に未夜がマーシャルの手をゆるく握り込む。すると長い黒髪がふわりと浮き上がり、未夜の輪郭をなぞるように光の粉がきらきらと舞い上がる。未夜の焦点はどこか別の異空間を見ているように虚ろだった。
やがて未夜が小数点まで掘り下げた的確な数字を機械的に口にしてゆく。それは右輪折彦をスキャンした際にコピーした詳細なデータだった。
脈拍や血液や疾患などの体内データと思考や行動原理や罪悪感などの精神データ。主に二パターンからなる右輪像をことごとく数値化したものだった。
マーシャルの両眼は左右で異なった能力を持つ。
右目は視界から得たしたまま吸収できるが、左目に記録するには、相手に触れなければならない。左目の保存データを表示する時も適合する相手と接続しなければならない。
つまり左目はファイルを一時的にしか保存できない半端な代物だ。時空移動用に使うメモリースティックとも言える。そして未夜はHDDだった。
未夜の饒舌が停止すると、ロボットのような口調で問いかける。
「セイブ しま すか」
「ええ。ご苦労様」
「セーブします」
人の語調に戻った未夜がにっこりと笑って頷き、マーシャルから手を離した。マーシャルの左眼はすでに復元されていた。眼帯はポケットに片づけた後だった。
「とりあえず右輪のデータは後で細かい処理をお願いしますね、未夜さん」
「わかりました」
「まずまずの成果です。警察に尻尾を掴ませない殺人犯の脳データは貴重。どういう経路で犯行を決意したのか、実行に踏み切ったのか、自制する感情はあったのか、すべては今後の事件や捜査にも役立つことでしょう。それに遺族の生々しい精神データも得られましたからね。ネロの発信器に不具合が生じたことは計算外だけれど、まあ、それは凛然寺からの報告を待ちましょう」
響子は豪奢なコートをばさりと翻すと、それをファッションショウのごとく華麗に放り投げて、廊下へと歩き出した。侍女のように追随した未夜がコートを拾い、手慣れた動作で毛皮をクローゼットに片づける。
北大岡響子は若くして司法の頂点近くに君臨し、適切な人材を円滑に派遣できる優れた存在だ。だから犯罪者のデータをより多く集められる。
無能な警察が逃した未解決事件の犯人だとはいえ、必ずミスはある。どこかに抜け道がある。完全犯罪を成し遂げた犯罪者もしょせんは欠陥人間だ。絶対に付け入る隙はある。
集めたデータを分析すれば、現在逃走している卑劣な犯人を捕まえられる。
必ず活用できる。
根本的な問題として、犯罪者となりうる先天的な脳の持ち主を特定できれば、犯罪そのものを抑止することにも繋がる。危険分子はより少ない方が社会のためだ。
先天的な犯罪者を監視し、隔離し、潰していけば犯罪が減る。
そうすれば、圧倒的大多数の国民が安全に暮らせる。
逆に――意図的に、好みの犯罪者を作ることも自在ですけどね。
北大岡響子はくすりと笑って、階下で本業を行うためにエレベータに乗り込んだ。
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