その23
頭中で閃光が弾ける。
今まで抱いてきた疑問の欠片が合体してゆく。
遺族の気持ちになれ――特殊検察官――死刑を求刑する。父が母について語ると申し出たこと。右輪はすでに死亡している。母が死んだのは僕が生後六ヶ月の頃――。
僕は十六歳だ。
しかし過去に戻った今の時代では十五歳。あの見窄らしく汚い汚物のような右輪が、ほぼ十五年前に母を殺したという。
現在は司法省の改正によって殺人の公訴時効は二十五年になっている。
だが当時、殺人の公訴時効は十五年だった。
詳しい日時は不明だが、今が、時効成立の前後かもしれない。
事件から十五年が経過する今、
僕に、
遺族の僕に、
右輪の命運を握らせるのか。
殺生だと思った。残酷だとも。だが僥倖だとも言える。
母が殺されていたことでさえ、今はじめて知ったことだ。パンダのブローチという証拠がなければ一笑に伏すところだった。
思えば、母が殺人の被害者であることに心当たりもある。
なぜか父の友人は警察官が多かった。当時の僕は子供で疑問を抱かなかったが、きっと彼らは父の友人ではないのだろう。恐らく母の事件を担当する刑事たちだ。
頻繁に父を訪ねてきた刑事――僕が慕っていた刑事も、右輪を逮捕できなかった。
右輪は孤独死するまで捕まらない。罰も受けない。容疑すらかけられていない。まんまと逃げ切ってみせた。
「ボタンを押せ」
ネロの言葉が背中をつつく。
「やれ。許せないならお前が死刑ボタンを押せ。遺族のお前にはその権利がある」
「ボタン……」
僕は安易に言葉を繰り返した。そうして理解する。
僕は最初から『特殊検察官』になんか選ばれていない。僕は遺族の代表として、北大岡響子から、復讐を遂げる権利を与えられたにすぎない。
司法の観点から凶悪犯を裁くべきだ。
検察官を目指す者としてそちらを優先すべきだ。
――司法の犬ならば。
なのに胸中で私怨がごおごおと渦巻き、衝動的な感情に翻弄される。
僕は母のぬくもりを覚えていない。写真でしか顔も知らない。
しかし父は傷を癒せぬまま、息子に愚痴も零せず、どこにも悲しみを吐き出せず、太い棘を呑み込み、ひとりで僕を育てている。
他の遺族はどうだろう。
被害者は主婦たち――しかも結婚して数年しか経たない若妻ばかりだ。右輪に幸せを奪われた遺族たちの心情は一体どれだけの――。
僕は頭を抱えて絶叫した。
「うわぁああああぁぁぁあああああああああああ」
腹の底から沸き上がる感情を声に変換しても足りない。うまく処理できない。
これが憎悪なのか。わからない。この感情を表現する単語が見当たらない。
ただどす黒く、重く苦く痛みを伴う感情にすべてを支配される。
怒りなのか憎しみなのか怨嗟なのか。わからない。わからない。遺族の気持ちになって考えるということが、ここまで己を崩壊させることだとは想像もできなかった。
僕は右輪を睨みつけた。
この冷血な卑劣漢は無秩序に人の命を奪った。そうして無責任に死んでゆく。誰に詫びることもなく、誰に非難されるわけでもなく、朽ちた屍として世間から消えてゆく。
許せるだろうか?
いや許せない。
もしも、万が一、右輪が僕の母を殺していなくても答えは同じ。遺族の気持ちになれば迷うことはない。外道に相応の罰を与えることに葛藤も躊躇も必要ないのだから。
僕は一息で呼吸を整えた。
けして感情的になっていない。僕は冷静だ。客観的に現状を理解している。自分に言い聞かせるように咳払いすると、僕はまっすぐネロを見据えた。
「僕は特殊検察官として、右輪折彦被告に死刑を求刑します」
「はん。お前、命賭けるんか?」
「賭ける! 命なんてどうだっていい!」
発作的に叫び、自分が少しも冷静じゃないことに気づいた。
ネロの左右非対称の髪が深紅に染まる。まるで血の色だ。瞬間移動のごとく目で追えない敏捷な動きで、ネロが僕の眼前に立った。
「よし」
ネロが目をぎらぎらと光らせて、手刀を肘ごと後ろに振りかぶる。咄嗟に身構えたが一瞬遅かった。気がつくと、ネロの右手が僕の腹部に刺さって貫通していた。
殺されたのだと思い、慌てて死を覚悟した。
胃が熱い。内臓を掻き回される感触がある。なのに腹部に痛みがない。咽喉に熱湯が通過した時のような、ちくりとした痛みが走った。直後、僕は飛沫を散らして吐血した。
ネロがするりと腕を引き抜く。
なぜか熱さと痛みが和らいだ。腹に触れて確認したが穴はなかった。僕が息苦しさに呻きながら口許の血を拭った時、
ネロが、右手にべっとりと付着した血液を長い舌でぺろりと舐めた。
「ケーヤク成立」 ・・・・・・・
あれは僕の内臓の血じゃないのか。なるほど。わかった。命とは胃の血か。
まったく。こんな時のまで言葉遊びなんて――こんな時に謎かけなんて――こんな時にいち早く正解が頭に浮かぶなんて、本当に僕はどうかしている。
苦笑すると同時に、ネロが血を滴らせた右手を高く掲げた。
「暁!」
号令と共に、薄暗く世界を包んでいたバリアが溶ける。僕はがくりと膝をついた。痛みはないが立っていられない。急激に血が抜けたことが原因なのか、頭がくらくらする。
ドーム状の布が頂点で巻き取られるようにしゅるしゅると収縮した。小さく固まった布が銀色の金属に変化し、鋭く研がれた三日月の形になる。
三日月型の刃物の尾から銀色のアルミ棒が伸びて柄を作った。
――鎌だ。空から落下してきた銀の鎌がネロの手に吸い込まれる。
ネロは前傾姿勢になり、食い入るように右輪へと顔を寄せた。くちづけをするように、左手でくいと右輪の顎を引き上げる。
「俺をよーく見ろ。お前が最期に目にするのは、この俺だ。俺様が狩ってやんよ。殺人鬼が殺人鬼に殺されるなんざ自業自得だろ」
ネロは呵々と笑った。
真っ赤な髪を靡かせて、鎌を斜めに振りかぶる。
右輪はほんの少しだけ腕を泳がせて身を守った。だが逃げることはしなかった。顔は相変わらず醜悪だ。どうでもいい。そんな放言を放つ顔をしていた。
「覚悟しな。俺が直々にお仕置きしてやらあああ!」
死刑囚の首めがけて、大鎌がばっさりと斜めに薙ぐ。
血は噴き出ない。肉も皮膚も切れていない。なのに右輪の首ががくりと後ろに倒れて、眼球が白目を剥く。白目は黄色く濁っていた。右輪は両膝をついたまま正座で固まった。最初からこの形に造られた彫刻みたいだった。
風がひとつ吹く。
ふうと息を吐いて砂粒を飛ばすように、魂も風に溶けるだろう。
誰にも悲しまれることなく、誰にも悼まれずに右輪は死んだ。たぶん誰ひとり右輪のために涙を流さない。――死刑。この刑罰は相応の報いとは言えなかった。七人の魂は、犯人の命ひとつで贖えるものじゃないからだ。
ネロは弁当の入ったビニール袋を拾い上げ、右輪の顔に被せた。そうして背中を蹴り上げると、右輪の死体は前のめりで地に転がった。
「死刑囚の顔は隠れてるモンだ」
口角を揺らしてネロが少し笑った。風下にいるせいで強い血の臭いが漂ってきた。
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