その22
「証拠を提出する」と凛然寺は言った。
証拠とはまさに、犯行時における右輪の生々しい記憶だった。無情にも命を奪われた彼女は――巡河曜子さんは、右輪の犯行における第一犠牲者なのだ。
僕は自分が検察ではなく、陪審員または裁判員ではないかと錯覚した。この証拠を提出することこそ、まさに検察側の使命なのに。
映像の凄まじい破壊力に翻弄される。司法における既成概念を吹き飛ばすほどの威力を持っている。単純に事件のあらましや経緯を耳にした時とは心証が違う。雲泥の差だ。
書面上の事件じゃない。ニュースで聞きかじった事件じゃない。
――僕は凶行を目撃した。たった今。この目で。
凛然寺が眦を吊り上げて僕を見据える。
「検察の意見をどうぞ」
「僕は……」
「では証拠を提出します」
僕が曖昧な態度を取ったからか、凛然寺が身振りで号令を発する。マーシャルがこくりと頷いた。僕は唾を飛ばしながら慌てて休憩を求めた。
「待ってください。七人分の凶行を見るんですか? 映像で? 全部? 通常裁判のように口頭で充分です。もうやめてください!」
「では証拠充分として、これより右輪折彦を被疑者ではなく被告とする」
凛然寺は車まで戻り、先ほど押収した証拠品を詰めた袋を運んできた。中をまさぐり、臙脂色の手袋をひとつ取りだす。さっき見たばかりの手袋だった。
「右輪はブログを始めてからちょうど四ヶ月後、この手袋を自分の所持品としてネット上に公開した」
戦利品という文字が頭に広がる。
人に知られてはいけない凶悪犯罪。警察の捜査の網をかいくぐって罪の隠匿に成功しても、それだけでは満足できない。まんまと刑罰を逃れた自分を誇示するため、証拠の品を密かにインターネットに掲載する。なんという悪趣味だ。
「一人目を殺害後、右輪は、警察の動向を窺ってなりを潜めた。だがすぐに虫が騒ぎ出した。ちょうど二年を経て、バス移動した旅行先の愛知で第二の犯行に及ぶ。ご丁寧にも高速バスを利用した記録をすべて書き残しているとは几帳面なことだ」
凛然寺は古びたノートを丸め、手でポンポンと叩き、鼻でせせら笑った。
先ほどパソコンを調べ、僅かな時間で部屋を漁り、証拠固めをしていたらしい。その辣腕は賞賛に値する。
「第二の被害者は枕戸眉美さん二十六歳、第二子を妊娠中の主婦。妊娠四ヶ月目。一子は二歳。被害者は通院する産婦人科からの帰宅途中に襲われた。当初、警察発表は強盗殺人だと伝えた。右輪は彼女を尾行し、道を尋ねるふりで呼び止める。意味不明な言語を発し、相手の意表をついたところで被害者の喉笛を掻き切り、最後に、胸を突き刺した。そして妊婦の手首に結ばれたミサンガと財布を盗み、後にブログ記事として公開した」
想像するだけで吐き気がした。
右輪は明らかに主婦ばかりを狙っている。一人目も二人目も、七人目とされる仙台の主婦まで一貫している。快楽殺人だからこそ、弱った相手に目をつけたのかもしれない。
狡猾なのは「道を尋ねる迷い人」を装い、相手の隙を作って凶行に至る過程だ。
僕もネロに同じことをやられたからよくわかる。聞き慣れない単語を耳にすると、反射的に聞き返してしまう。それは本能に近い。言葉の意味を考えることに集中し、視覚が疎かになることで油断が生まれるのだ。
被害者は七人にものぼる。荷物で手が塞がる者。妊娠して機敏に動けない者。無警戒な主婦に近づき、罠をしかけて、浅ましい牙で襲いかかる。
「異論はあるか」
凛然寺の視線の先にある右輪はへらへらと薄ら笑いで応対した。
許せなかった。罪悪感はとうに消し飛んでいるのだろう。右輪にとって過去の殺人は、道端に落ちている吸い殻と同じ意味しか持たないように見える。
「三人目以降の被害者も主に二十代の主婦で、バスでの旅行先で目をつけた標的が半数を超えている。機を逃したり、僅かでも露見の可能性がある場合は手を退く用心深さ。その割に証拠を後生大事に所持し、ネットで公表する大胆さも兼ね備えている。典型的な連続殺人犯の行動だ」
凛然寺が炎を宿した瞳をやや曇らせたことに違和感を覚え、僕は彼女の目の奥を覗き込んだ。しかしすでに動揺は消失していた。どうやら僕の杞憂らしい。
「検察からの求刑をどうぞ」
「……もちろん死刑です。縁もない善良な七人の主婦を残酷な殺害へ至らしめた罪は、極刑に値すると思います」
「死刑」
凛然寺は念を押すように強い語気で繰り返した。僕も強く頷き返す。
「けどその前に被告に質問させてください。どうして人を殺したんですか?」
僕は勇気を出して一歩を踏み出した。
実際に、利己的な理由で他人の命を奪った人間が目の前にいる。僕には到底理解できない心理と行動だった。右輪は空気の漏れる音で意味不明な返事を口にする。
耳を寄せて注意深く聞き取ると、右輪がぼそぼそと不明瞭な声で呟く。
「理由なんてない。どうだっていい」
半透明な笑い声に混じった言葉は卑劣で、無責任極まりなかった。
凶悪犯の中には、狂人ぶった人格を演じて精神鑑定に持ち込み、裁判を長引かせる狙いを持つ者も多い。現実の裁判だと、七名を殺害した被告に対して第一審で死刑判決が出ても控訴される場合がほとんどだ。最終的な判決がくだるまでに十年以上は要するし、死刑判決が出ても、逮捕から死刑執行までに二十年かかることも珍しくない。
右輪の場合は幾つかの殺人が時効を迎えているので、少しややこしくもなる。
きっと今の呟きは右輪の本音なのだろう。
人の命を奪うのは楽しくて癖になるが、逮捕されて獄中生活をすることを恐れてもいない。現に今だって、逮捕を恐れて暴れたり、抵抗する素振りを見せなかった。
だから――どうだっていい。
「両親が他界したあと、自宅を売却した金で安アパートに移り住み、仕事もせず、罪を重ねながら、安い飯で食いつなぎ、死人のような暮らしを続けてきたのか」
「別にどうでもいい」
嘲りを含んだ凛然寺の言葉に対し、今度こそ右輪ははっきりと発声した。事態を充分に把握し、自分の行動を認めた上で返答している。右輪はこの上なく正気だ。
僕は拳を強く握りしめ、改めて口にした。
「死刑を求刑します!」
「ではこれより速やかに執行へ移行する。――ネロ」
凛然寺に呼ばれたネロは、右輪の脇で控えたまま黙って僕を見ていた。その目は訝しい色を湛えていた。
「ネロ。執行だ」
「やだね」
「ネロ!」
黒い詰め襟の巨人はゆるく首を振って拒絶した。凛然寺の叱責に怯む様子もなく、逆にまっすぐな視線で僕を睥睨してくる。
「現実の裁判なら、被告の更正を考慮する求刑も期待される。けどこれは過去のもんだ。すでに死人となった残骸を裁くために俺たちはやってきた。なあ。お前はもう気づいているだろう? この特殊裁判は『報復』の意味しか持たない」
ふざけた抑揚が消えた慎重な声だった。しかも僕を犬扱いしていない。
「お前はどうして死刑を求刑した?」
「だ、妥当だからです」
「わかってるんか。この死刑は報復だ。お前は、世界の誰よりも犯人に報復したいであろう『遺族』の代弁者になる。妻を、母を奪われた遺族の気持ちになったんか」
「もちろん考えました。ここに遺族がいても同じく死刑を求刑すると思います」
「ならお前が右輪を殺せ」
冗談を発する口振りや表情ではなかった。ぞくりと背筋に悪寒が走る。東京拘置所で死刑執行のボタンを押せと迫った時より、何倍も深い真剣味に思わず気圧される。
殺す。右輪を。
「そんな。どうして僕が……」
「どうして? 笑わせるな。ここに遺族がいたら、あいつに飛びかかって殴り倒す。俺が手を下すまでもなく、あいつの首をへし折る。それが遺族の気持ちだろうよ」
確かにもっともな意見だと思う。
僕が頷く直前、ネロは凛然寺の手元から証拠品が詰まった袋を取り上げた。凛然寺は顔に困惑の色を浮かべたが、ネロの行動を黙認した。ネロは袋の中から取り出したものを、僕に放り投げて寄越す。
プラスチックに似た固形物だ。掌に収まる小さな石ころのようなそれが、空中でゆるやかな放物線を描き、ちょうど僕の手に落ちてきた。
それはパンダのブローチだった。
一瞬それが何なのか理解できなかった。
息ができない。思考がとまった。色が剥げた雑貨は傷だらけだった。
僕はブローチを食い入るように見つめ、何度も何度もこれが何であるかを考えた。確かに見覚えがある。忘れるわけがない。
ネロに目を合わせると、神妙な顔で口唇をきつく結んでいた。
縋るように凛然寺に目を向けたが、視線の軌道を逸らされた。
僕は驚倒しながら冷静に現実を受け止めた。そのつもりだった。凛然寺の声が聞こえてきたが、感情なく唱える念仏みたいに感じられた。
「三人目の被害者は姿見沙織さん二十五歳。生後半年の息子を」
それ以上は聞き取れなかった。
蝋で足元を固めたように身動きができない。嗚咽が漏れる。悲哀の感情など湧かないし涙も出ないのに、ひたすら嗚咽が零れる。
頭の奥で重たい鐘が鳴り響き、視界が真っ暗になった。
姿見沙織二十五歳――それは母のことだ。
パンダのブローチは写真の母の胸に輝いているものだ。




