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特殊執行鬼 ネロ+  作者: 田中志摩貴
18/27

その18

 僕は軽い眩暈に襲われた。狭く汚いキッチンまで足を引きずり、何のために置いてあるかわからない木製の折り畳み椅子に腰をかける。台所にはめられた磨りガラスに人影が映っていた。背丈から察するにマーシャルが外で見張りをしているのだろう。


 僕は正義のヒーローが好きだ。

 人を救う仕事がしたかった。悪い奴を退治したかった。悪い奴を排除することで、大勢を幸せにできると信じていた。


 僕が検事になると決めたキッカケは小学生の頃だ。

 父は友人が少なく、我が家を訪れる顔ぶれは限られている。僕が社交的な性格じゃないのは父の遺伝かもしれない。なぜか父の友人は警察に勤める人ばかりだった。よく僕の頭を撫でてくれた人の職業も刑事だった。

 正義の味方に憧憬を抱く僕は、人見知りにしては珍しく彼にまとわりついた。仕事について、ヒーローについて質問攻撃を浴びせると、いつも彼は苦笑いしていた。

 彼は警視庁や警察庁に勤めるお偉いさんではなく、現場でしぶとく聞き込みを続ける刑事なのだと丁寧に話してくれた。卑下した口調ではなく、むしろ誇らしげな態度だった。

 悪い奴を現行犯逮捕したことがあると聞き、僕は尊敬の眼差しを捧げていた。

 あれは、いつも通りの夜。

 僕は彼にお願い事をしたのだった。父が中座したタイミングを狙って素早く隣に座り、彼を揺らしながら力一杯せがんだ。

「あいつを死刑にしてよ」

 あいつとは、当時ニュースで取り上げられていた有名な犯罪者だ。

 罪状は思い出せないし名前も忘れた。だが報道の取り沙汰し具合を考えると恐らく極刑に値するものだろう。最高裁の前で連日マスコミがもみ合う映像がテレビで流れていた。

 彼は少し困った顔で答えた。

「俺が死刑にすることはできない。警察は犯人を逮捕する役目で、悪い奴を起訴して死刑台に送るのは検察官だから」

 僕は彼の言葉を一語一句漏らさず記憶し、翌日から、検察官という職業について調べ尽くした。そうして父に司法試験を受ける旨を宣言した。

 やる気に満ちていた。

 今だって、気概は誰にも負けていない。

 けど僕は無知で無力だ。

 人がなぜ人を殺すかを理解できないし、人がなぜ自分を傷つけるかもわからない。

 わからないのに、国から発行された免許を盾にして人を裁く資格があるのか?

 世間を知らず、他人を知らず、誰かの痛みやその原因も察せらないのに、人生や命を左右する資格を持てる。断罪を振り翳す免許がある。

 その重みを実感して急に不安になった。

 複数の殺人を犯した者には死刑を求刑する。この信念は揺らがない。けどこのままではダメだ。僕には何かが欠けている。このままでは胸を張って事件と対峙できない。

 検事の立場で考えると、被疑者死亡という理由で右輪を不起訴に処する他ない。

 だが人としてはどうだ。

 もしも自分が遺族ならば不起訴を肯定できるか? 納得できるか?

 僕には経験が足りない。司法に関わる実務だけでなく、人として年相応の経験が絶対的に足りなかった。人が普段の生活から学ぶべきことを僕は素通りしてきた。

 部活も、友達との想い出も、誰かに恋することも、将来や進路に迷うこともなかった。

 だから学校制度や大人に怒ったり、親に反抗して喚いたり、理不尽さに泣いたり、同級生と想いを共有して感動したり、衝動的に物にあたったり、説明のつかない不安に苛まれて土手で叫ぶこともない。

 しなくても構わないと決めつけてきた。そんなものは役に立たずで時間の無駄だと、最初から避けていた。

 しかし今は、誰もが当たり前に感じ取れることを、自分が感じ取れているのかどうか不安でしょうがない。自分が常人だと胸を張れない今を恥ずかしくも思う。

 僕の価値観と一般的な価値観は合致しているのか?

 正しいこと、怒るべきこと、悲しむべきこと、それらすべてを僕は法律を踏まえて振り分けてきた。だから今、感情論で思考する自分に途方もない当惑を覚えている。

 そうだ。

 今の僕は司法よりも感情を優先している。それでは冷静に起訴不起訴を判断できない。

 けれど、感情を消しては一般的な価値観に沿えない気もする。

 右輪は人を殺した。しかも複数を毒牙にかけた。だから法に則った裁きを与えてやりたい。だが右輪はすでに病死している。死亡したとはいえ、過去に戻った今は生きている。

 感情では右輪を死刑にしたいのに司法制度がそれを阻む。この討論が頭中で延々と繰り返される。答えは出ない。出せない。僕はひどく混乱していた。

 ――死とは何だ。

 本当に死刑が相応しいのか。

 七人を殺した右輪は、その命ひとつで罪を償えるのか。右輪に死刑を与えることは、七人の命が右輪と等価値だと認めることになりはしないか。

 それとも死刑は、秩序を乱した者に対して、社会が突きつける報復にすぎないのか?

 僕は今まで、まっすぐ正直に死について考え抜いたことがない。

 死は恐ろしいもので、存在が霧散するものだということは知っている。だが実際に死とは何だろう。犯した罪はすべて死で償えるものなのか?

 僕は死を経験していない。

 見たことがない。身近に感じたこともない。だから正体を知らない。

 悄然と首を落としたあと、ポケットに突っ込んだ財布から母の写真を取り出した。

 母はもういない。母は亡くなった。だけど写真の中ではいつも笑っているから、母が死人だと認識できていないのも正直なところで、どこかでひっそり生きている気もする。

 母はいつも笑っている。

 父が贈った不細工なパンダブローチも目を垂らしている。

 もし母とひとつだけ会話ができるなら、僕は何を話すだろう。

 父とはうまく生活してます。旧司法試験に受かりました。友達はいません。今、よくわからない事態に巻き込まれてます。タイムスリップは可能らしいです。ネロと凛然寺が怖いです。なぞなぞと死語がウザイです。そんな他愛もない報告をするだろうか。

 けど今なら――今なら、聞きたいことがある。

「お母さん。死とは何ですか」

 心の中で呟いても、写真の母は表情を変えない。

 いや少しだけ、慈愛に満ちた聖母のような面貌に変化した。変化したかもしれない。たぶん気のせいだろうけども。



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