その17
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霞ヶ関の歩道に飛び出して久しぶりの外気に触れた。景観は変わっていないのに、焦げたアスファルトから湯気に似た熱が立ち上る。行き交う自動車が放つ排気ガスがひどく恨めしい。ものの数秒で体温が上昇し、急激な発汗症状に襲われる。
明らかに三月の様子とは違っていた。
冬仕様の衣類を脱ぐと、マーシャルが手早くそれを奪っていった。預かってくれるらしい。軽く会釈すると、露出した片方の糸目がさらに柔和に垂れ下がる。
その時、意思を伴う視線が矢のように突き刺さった。
ひとつではない。シャワーを浴びるように視線が降り注いでくる。途端にぞわりと悪寒が走った。慌てて首を巡らせて視線の元を探る。だが誰もいない。スーツを腕にかけた白いワイシャツの大人たちが汗を拭いながら足早に闊歩しているだけだ。
「どうした」
凛然寺の詰問口調、これはもしかしたら僕を気遣っているのかもしれない。僕はふるふると首を振って平然を装った。汗で冷えた身体が震えただけだろう。
用心のために、もう一度こっそり目線だけで辺りを窺う。不審な気配はない。激動の一日が目まぐるしく過ぎゆくせいで神経ががびーんになっているのだ。違う。神経が過敏になっているだ。まずい。暁に毒されてしまった。
マーシャルが運転する大きな車が横付けされ、凛然寺の指示に従い次々と乗り込んでゆく。車種はわからないが、内も外も綺麗に清掃された、いかにも高級そうな車だった。
車が発進しても、ネロと暁は相変わらずどうでもいい言葉を交わしてはしゃいでいる。
僕が空腹を訴えると、珍しく凛然寺が目を丸めた。
「済まない。確かにそうだ。私の不手際だ」
凛然寺の指示でコンビニに寄るが、刑務官は現場を離れられないらしく、必然的に僕が調達役に任命された。適当に食べ物を買い込み、教えられた通りにレシートをもらってくる。領収書代わりになるらしい。
暁が両手に持った板チョコを囓り、凛然寺は飲み物を口にした。ネロは袋から商品を取り出しては手当たり次第に食べ散らかす。包装紙を剥ぎ取って無造作に口へ運んでゆく。あの裂けた大口は異次元ポケットか掃除機に違いない。
僕はおにぎりを食し、続いてパンを胃に流し込んだ。
このままでは食料のすべてをネロに奪われてしまう。慌てて確保したひとつのパンを非常食としてポケットに押し込む。形が潰れても質量と栄養は変わらない。
「もうないんか」
ネロは不満げに舌打ちするが、隠したパンのことは秘密にしておいた。どれだけ食べれば気が済むのか。恐らく無尽蔵の食欲を誇るのだろう。
車は二十三区を抜けて、都下の奥地と呼べる市まで走り続けた。食事を終えたあとネロと暁が滅裂な旋律を合唱していたが、やがて暁が疲れて寝入ってしまった。
古びた駐車場に隣接するアパートの前を通過した時、凛然寺が硬質な声を落とす。
「ここが右輪折彦の住まいだ」
建物の位置と外観を確認し、そのまま自然なスピードで数百メートル進んでから運転手のマーシャルを除いて降車する。暁はネロに抱かれたまま、まだ眠っていた。
アパートは推定築四十年を超える代物だ。壁に亀裂のようなシミがこびりつき、全体的に灰色と黄色の垢が混じって汚くすすけている。屋根の材質はわからない。八戸、二階建て。錆び付いて不安定な階段が奥に備わっていた。
「どの部屋ですかね」
「二階の奥だ」
凛然寺が口にした瞬間、該当する部屋の扉が開かれた。心臓が縮み上がり、一瞬呼吸が止まった。驚いた。噂話をしていたら当人が後ろで聞いていた、くらい驚いた。
右輪折彦は身なりを気にしないタイプらしい。
襟の伸びきった粗末なシャツと綿パンに簡易サンダルを履いている。髪は無造作に伸びていて櫛も通していないし、帽子すら被らない。目はどんよりと曇り、髭は伸び、正午過ぎに起床したことがよくわかる風体だった。
さっそく右輪を確保するのかと、僕の心臓は早鐘を打った。
これまでの人生で、刑事事件の犯人逮捕劇を目撃したことはない。そもそも重犯罪者を直に目にすることが初めてなのだ。
予想外にも凛然寺が動く様子はなく、右輪はたらたらした足取りでどこかに消えた。逮捕どころか、右輪を尾行する気もなさそうだ。
完全に右輪の影が見えなくなった頃、凛然寺の誘導で階段をあがってゆく。息を殺し足音を殺す。右輪の部屋に忍び込むつもりらしい。僕は自分がどんな行動をとるべきか判断できず、思考が停止したままみんなの進行に倣った。
すると再び、敵意に満ちた視線を感じる。激しい鳥肌が全身を駆けめぐった。
殺気だろうか。僕は今まで命を狙われた経験はないが、なんとなく――そう、初対面でネロから受けた威圧感に似ているのだ。
凛然寺が振り返り、目を細めて僕を睨んだ。
「何か気配があるな」
「……何ですかね」
凛然寺が気づいた、ということは本物ではないだろうか。視線の正体が何かはわからないが、確実に『何か』はあるのだ。
「監視されているかもしれない」
「誰にですか」
「私が聞きたいくらいだ」
凛然寺は不機嫌に吐き捨てた。警戒心を隠さず辺りを見渡すが、視線の主を特定できずに悔しそうに下唇を噛む。かなりもどかしそうだ。
監視者の正体を追求したい気持ちはある。
だが凛然寺は時刻を確認し、諦めるように首を振った。とりあえず右輪の件を滞りなく遂行するのが特殊刑務官の務めらしかった。
凛然寺が刃物に似た器具で器用に解錠し、安っぽいコーティングがされた木目のドアを手前に引いた。銀色の丸いドアノブは左右に回すものだった。
時間移動の際に語られたネロの説明を、今なら咀嚼できる。
いま僕が立つ場所を一般社会という外界だとしても、
たった扉一枚を潜るだけで、そこは凶悪犯が支配する隔離された領域へと変貌する。
僅かな境界線の差で世界が一変する。
右輪折彦の自宅はキッチン三畳と六畳間で、引き戸で仕切られただけの続き部屋になっている。雑然とした部屋にゴミが散乱していた。
コンビニ弁当やカップ麺の容器は数え切れないし、机上のみならず、床にまで放置されている上に中身が入ったままのものも多い。蹴飛ばすと大変なことになるだろう。とにかく異臭がすごかった。今まで嗅いだ腐臭の百倍は進化している。
カーテンが閉め切られ、部屋が薄暗い。布繊維の隙間からほんのり射し込んでくる僅かな陽光を頼りに、鼻をつまみながら室内に目を光らせる。
電化製品に埃が溜まっていた。とくにテレビ画面は黴が生えたかのように埃が堆積していて、何年も電源を入れていないのだろうと推測できる。
殺人犯は、自分の罪が暴かれないか警察が動き出していないか、四六時中気にするものだ。しかしその形跡がない。すべての情報はインターネットから得ているのか。
凛然寺は白い手袋をはめ、てきぱきとペンやグラスなどを採取する。証拠品を押収というより右輪が使った日常品を集めているみたいだ。そしてデジカメで部屋中を丹念に撮ったあと、厳然と顔をしかめながらパソコンを入電する。
凛然寺が最初にクリックしたのは右輪のブログだ。前のめりで熱心に読んでいる。僕も一緒に画面の文字を追ったがあまりに退屈な文章だったので緊張感が抜けてしまった。
ふと目が止まる。
パソコンが置かれた粗末なテーブルの奥に、八センチ四方の巾着袋があった。
あれは確か、仙台の主婦が愛用していた可能性がある品だ。
お気に入りです、とブログで紹介したにも関わらず、明らかに興味なさげに投げ捨ててある巾着。これも埃まみれだ。中を確かめてみる。何も入っていなかった。とりあえず、右輪が愛用していないことは事実確認できた。
これが被害者主婦のものなら、中身はどこに消えたのか。旦那も中身を把握してなかった。ほんの些細な日用品だろうと言っていた。もしかしたら最初から中身などなく、旦那との想い出の品だから身につけていたのかもしれない。そう考えると胸が痛かった。
「どうして、巾着袋なのかな」
「あ?」
ネロは狭い室内で窮屈そうにしていた。肩口に乗せた暁を落とさないようにバランスを保ちながら不機嫌な顔でこちらに反応する。
「右輪が犯人だと仮定しての話ですけど、だとしたら右輪はこの巾着を使わないのになぜ主婦からこれを奪ったんですかね」
「戦利品だろ」
「え」
「だから戦利品だっての。耳がないんか」
「耳はありますけど……えーと」
「正気か。本当に知らないんか。あんなあ、殺人犯、とくに連続殺人犯にとっちゃあ普通の症状だぞ。人を殺して優越感を得た犯人は、その証として被害者の所持品を奪うもんなんだってよ。巾着袋でも何でも構わねーの。持ち物じゃなくても、被害者の身体の一部とか、まあ、指とか耳とかを切って持ってくことが多いしな。てーか、なんで検事になりたいお前がこんな初歩的なことも知らんの。勉強しとけ」
「犯罪心理学にはまだ着手してなくて」
僕はまだ未熟で、学力は向上したものの六法全書を読むだけでも未だ苦労している。
戦利品――それは殺人の証拠と同義だ。
なのに犯人はそれを持ち帰るというのか。危険を冒してまでも記念品を欲しがるのか。
捕まりたくないから現場で足がつかないよう配慮するのに、目に見える形で実績を重ねていきたい。だからリスクを承知で被害者の所持品を盗む。
理屈では処理できるが、どうしても殺人犯の気持ちに同調できなかった。
「なんで殺すんですか」
「あ?」
「なんで人を殺すんですか」
僕は巾着をきつく握りしめ、強い眼力でネロを睥睨した。
二百人を殺して埋めた殺人鬼は今なぜか、殺人犯を裁く役目を負っている。どんな経緯があったにせよ、仮に今は改心しているにせよ、残虐な犯罪を重ねた事実は消えない。
ネロは悪びれることなく、額をぽりぽりと指で掻く。
「俺は神になりたかった。足りないものを埋めたかった。だから殺した」
「何ですかそれ。人を殺して神になれると、本気で思ったんですか?」
「思った。だから殺した」
ネロは飄然と答えるが、いつものようにふざけた口調ではなかった。僕は口唇を引き締めて真摯に訴える。
「人を殺しても神にはなれないと思います」
「だな。なれねーな。実際になれんかったしな。何が足りないんかな」
「あなたに足りないのは、真剣な態度と僕の質問に対する解答でしょう!」
「お。ちょっと面白かったぞ今の」
ネロは目を輝かせて裂けた口を広げた。笑声のない笑顔だった。
「ヒントやろうか」
「いりません。僕は答えが欲しいんです。教えてください。どうして殺すんですか?」
「てか、ポチにも殺したくなる奴はいんだろ」
「いません」
「ポチが凶悪犯に死刑を求刑することだって、殺意には違いないだろ」
「私欲の殺意と秩序を維持するための法律は別物です!」
僕は司法を馬鹿にされたみたいで少し腹が立った。脳天気にのらりくらりと答えを引き延ばす態度にもイライラする。
「あなたが二百人殺したのは本当なんですか」
「おうよ」
「埋めたのは?」
「埋めたな」
ネロは半笑いのまま肩を竦めた。僕は脳天が沸騰するほどの怒りを覚えた。僕は指先をネロに突き刺して大声を張り上げた。
「なんで殺人鬼が逮捕されないんだ! どうして野放しにされてるんだ!」
「拘束されてんぞ。自由なんてねーよ」
「もし僕に権限があったなら、今すぐあなたの死刑を求刑します。凶悪な殺人犯は死ねばいい!」
「お前も殺したい奴、いるじゃねえか」
ネロは磊落にけらけらと笑った。
「人はなぜ人を殺すか。教えてやんよ。それはな、楽しいからだな」
「楽しい……?」
「殺意に限ったことじゃないぜ。人間は『楽しいこと』か『やらなきゃならんこと』しかやらねー生き物だ。わかるか。生命活動を維持するために必要なことは、どうしたってやらなきゃならんだろ。呼吸も食事も睡眠も、嫌でもやるだろ。食うために働く。稼げないなら犯罪に走る。食うためだ。生きるためだ。食うのをやめたら自殺だ」
「だからって、人に害を及ぼして、迷惑をかけることを正当化できません!」
「馬鹿だなポチ。法律法律って言うけど、法律を暗記してる国民がどれだけいるよ? 一握りじゃねーの。そもそも法律を守れる奴は犯罪者にならん。相手は犯罪者だかんな。最初から法律なんて糞食らえなんだよ」
それは一理ある。
つまり犯罪を犯す者と犯さない者の隔たりは、想像を絶するほど深い。目に映る社会、住む世界、価値観、道徳観念、考える次元が違うのだ。
「殺人を目的にする奴は『殺したい』か『殺さなきゃならん』の二択だ。怨恨だとか痴情のもつれだとか他人と揉める奴、裏社会の人間、根本的にこいつらには『私欲を満たすために必要だから殺す』という選択肢が頭にある。だから犯罪に足を突っ込む。けどこいつらも、人を殺さず穏便に済む方法があるなら殺したくないってのが本音じゃねーの。『自発的に誰かを殺す』なんて事態はそうそう起きねーわ。戦争以外はな」
僕は口を挟めなかった。
ネロの流暢な語りは、抑揚を操る技術のせいか説得力がある。
人間は必要なことか楽しいことでしか、自発的に動かない。
確かにそうだ。でも納得はできない。
「人はなぜ人を殺すか。人を殺す奴はそれが楽しいんだ。そんだけだ」
「僕には理解できません」
「逆に考えな。必要に迫られてもないし楽しくもないのに、やりたくもない殺人を繰り返す馬鹿がいたら、俺にはそっちのが理解に苦しむぜ」
「僕にはわかりません! わからない!」
「別にいいんじゃねェの。殺人犯が異常なら、ポチの頭が正常なんだろ」
ネロは甲高い声でひゃっひゃっと笑う。
そして顎を突き出して凛然寺をぷいと指し示した。
「なぜ殺すのか? そんなに気になるなら、あいつに聞け。聞いてみろ。どうして健康な手首を切るんですかってな」
「え」
僕は反射的に凛然寺を振り返り、今の言葉が届いたかどうかを真っ先に懸念して青ざめた。凛然寺は真剣な表情でパソコンと格闘している。聞こえなかったようだ。僕は安堵した。無意識に凛然寺の手首を注視する自分を恥じるも、どうしても目が離せず、食い入るように首を伸ばす。しかし黒い袖に覆われていて傷を確認できなかった。
風の噂には聞いたことがある。
心の病によって、自傷行為を止められない人がいるのだと。
「それは理解できるんか?」
ネロは面白がるように呵々と笑った。
「俺は痛いのイヤだし、よくわかんね。でも想像くらいはできんぞ。身体を傷つけると当然痛む。けど痛みを緩和するために防衛本能が働いて、身体が勝手にホルモン分泌する。それが快感を呼ぶ。離人感を得る。人格乖離の疑似体験をして現実逃避でもしてるかもしれんな。知らず知らずその脳内ホルモンに依存してんだな、たぶん」
心の傷は見えない。だから見える場所に傷つけて、人に救助サインを出しているのだと思っていた。正解はわからない。僕にはわからない。
なぜ人を殺す者がいるのか。
なぜ自分を傷つける者がいるのか。
僕には何もわからない。
この年まで、戦隊ヒーローと勉強しか知らない僕には――何もわからない。




