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特殊執行鬼 ネロ+  作者: 田中志摩貴
15/27

その15

* 


 時間移動が可能かどうかはわからない。

 僕は激突した壁に凭れて、放心したまま動けなかった。腕を組む凛然寺は目を瞑って沈黙しているし、ネロはベンチでだらしなく横臥している。

 二十分が経過した。けど体感した時間は一時間にも二時間にも感じられる。胸が痛かった。死刑囚の命が絶たれたかもしれない現実を受け止めることに、良心の呵責と同情と当惑が綯い交ぜになって理性をコントロールできない。

 私怨だろうが高尚な政治的な思惑があろうが、複数を殺害すれば死刑を求刑する。この信念は今でも揺るがない。だがリアリティある死刑の片鱗に触れて、情けなく怯える自分がいたのも事実だ。誰かを糾弾する時、僕の脳裏にはこの痛みと息苦しさと負い目がよぎるだろう。言い換えれば、この経験は教訓かもしれない。

 きん、と小さな金属音が聞こえた。

 本当は音などしなかった可能性もある。しかし音と同時に凛然寺が軍人めいた足取りで起立した。ネロが寝そべるベンチの背もたれを靴裏で蹴り上げる。

「行くぞ」

「わーったよ」

 本当に居眠りしていたのか、ネロは半身を起こして目をこすった。どういう神経しているんだ。こっちは身動きひとつできなかったというのに。

 ネロがノブを引くと、凛然寺から先に扉を潜った。ネロの大きな背中に隠れるようにしてこそこそと追随する。

 僕が通過するなり扉を閉めると、凛然寺が顔を寄せて耳打ちした。

「ネロの言葉に耳を貸すな」

 一瞬、意味がわからなかった。

「アレの言葉に惑わされるなと忠告したはずだ。もう忘れたのか。軽い脳みそだな。身の危険を感じたら使えと、事前にこれを渡しておいただろう」

 凛然寺は僕の左腕を掴み、捻りあげながら持ち上げた。間接が捻れて痛い。僕は悲鳴を呑み込み、防衛本能に従って凛然寺の肩を引き剥がす。

 凛然寺は厳格な上官のように睨みつけてくる。

「気を緩めるな。これは任務だ」

「はい……」

 僕は左肘を擦りながら悄然と返事した。発信器兼ネロの操縦器の存在をすっかり忘れていた。というか、それを使う手段を選べなかった。

 誰かを攻撃する、反撃するということを、これまでに経験してこなかったからだ。

 一種の平和ボケなんだろう。命の危険に直面した時、真っ先に命を落とす者は弱い者と愚か者だ。そしてそれは僕自身に他ならないと自嘲しつつ、がくりと頭を垂れる。

 東京拘置所の地下の地下通路ルートを逆に戻ってゆく。長く寒々しい廊下を抜けると再び扉があり、そこを抜けると検察庁だった。

 未夜さんのいない待合室を通過し、横開きのドアの向こうには例の豪奢な部屋がある。

 響子の姿はなく、床に敷かれていた動物の毛皮も撤去されていた。先ほどまでの部屋と若干ちがう。違う気がする。冷房がきついからか、肌にひやりと冷風が突き刺さった。

 ――夏?

 今日は昼間でもまだ肌寒い三月のはずだ。

 日時を示すものがないか目を巡らせたが、暦の類はない。音響機器はあるがテレビはなかった。パソコンかラジオに触れられれば最低限の情報は得られるのに。

 そうだ。咄嗟に思いついて携帯電話をこっそり調べたみた。圏外だった。しかもすぐに電源が切れてしまい、画面の光すら消失した。――ちくしょう。

 ふたりは慣れた足取りで思い思いの場所に座り、自室のようにくつろぐ。配置的にトライアングルを作るよう考慮して僕も控え目に腰掛けた。

 少しして、凛然寺がお茶を淹れ(もちろん一人分)ネロが寝そべって雑誌を捲る。

 雑誌の表紙には去年の夏の号と明記されていた。アコーディオンカーテンの間仕切り裏に置かれたコーヒーメイカーが目につく。おかしい。最初に検察庁を訪ねた時は、確か、流行のカフェオレメイカーではなかったか。

 本当に時空を移動したのかもしれない。半ば確信すると鳥肌が立つ。

 ふたりの後ろについてゆくだけで過去へ戻れるなんて――。

 もしも自在に過去に戻れるなら、人生が思うままだ。小学生で旧司法試験に合格する事も可能だし、テストの誤解答も修正できるし、見逃して悔し涙を呑んだ戦隊ヒーロー番組だって自由に視聴できる。時間移動とはなんと便利な能力だろうか。

「概略を説明しておこう」

 厚手の硝子テーブルに紙を広げた凛然寺がきびきびと文字を読み上げる。

「容疑者の名は右輪折彦。東京都出身。四十二歳。男性。両親は揃って八年前に、高速道路の玉突き事故で他界している。つい二ヶ月前、右輪折彦は一人暮らしの一室で病死したがこれは栄養失調と肺炎の併発が原因とみられる。死後一週間が経過したおり、アパートの大家が異変に気づき警察へ通報」

「死んでるんですか? 容疑者が?」

「そうだ」

 凛然寺は顔も上げずに一言で認める。僕は反射的に立ち上がっていた。

「え。本当ですか。被疑者死亡?」

「くどい」

「だったら、僕、いらないじゃないですか」

 愕然とした。言葉にならない落胆を覚えて、ぺたりと尻を降ろす。

 どんなに最悪な凶悪事件だろうと、公訴時効を迎えたものと被疑者が死亡した場合は、 ――確実に不起訴である。

 それが現在の司法におけるルールであり、例外はない。

「話を続ける。容疑者が亡くなったあと、自宅の様子やネット上の痕跡を調査した結果、右輪折彦に七件の殺人容疑が浮上した。最初の犯行が二十年近く前に行われた可能性を鑑みると、数件は時効を迎えていると見ていい」

「あの、ネット上の痕跡って何ですか」

「今から話す。容疑者に関する通報は、元より微細なものが幾つかあった。例えば二年前の春に起きた仙台の主婦殺害事件だ」

「それ、知ってます」

 僕は一転して興奮気味に舌を働かせた。

「えーと。何月でしたっけ。二月か三月か、詳しい日付は忘れましたけど、春のバーゲンセールで両手いっぱいに子供服を買い込んだ若妻が自宅近くで刺された事件ですよね。すぐに若妻は病院へ搬送されたけど、犯人の特徴も言えないまま息を引き取った。でもあれは通り魔に見せかけた知人の犯行だって報道されてませんでした?」

「馬鹿か。報道と捜査と真相は別物だ。幼稚園からやり直せ」

 凛然寺の野生動物のように鋭い眼光に射抜かれる。刑務官ではなく、経験を積んだ叩き上げのベテラン刑事の目つきだった。

「続ける。被害者の主婦は亡くなり、捜査の進展も見込めず、遺族は岩を噛むような歯痒さに苦しんだ。被害者家族である夫は、インターネットを通じて憎むべき犯罪に対して怒りを吐きだした。ある時、夫はひとつのブログに目をとめた。見た目は割と凝ったブログなのに、中身はなく、訥々とした文章でありきたりな日常を綴ったものだった。彼の目を引いたのは、ブログ内で紹介された巾着袋だ」

 僕はつい前のめりになり、真剣に傾聴した。

「その巾着袋は夫婦が結婚前に訪れた旅行先で売っていた期間限定ものだという」

「だから怪しい、と?」

「そう。ブログを書いたのは右輪折彦で、ブログ記事には、後ろ姿しか露出していないが自分の写真も載せていた。だから夫は違和感を抱いた」

「なぜです」

「巾着袋は女物だ」

 凛然寺が親指と人差し指を開いて大きさを示す。

「八センチ四方の赤い巾着には動物のキャラクターがプリントされている。主婦はそれを気に入り、限定品なこともあって夫がプレゼントした。主婦は購入当時ポプリを詰めて持ち歩いていたが、出産後は細かいもの――恐らくイヤリングかお守りを収納して持ち運んでいたらしい」

「らしい?」

「夫は巾着の存在などすっかり忘れていたが、ブログを見て思い出した。すぐに家中を掻き回して捜したが巾着は見つからなかった。ブログでは右輪折彦が「最近のお気に入りです♪」などと紹介していたという。数年前の限定品である上、男が使用するには不自然なものだろう。用途がない」

 聞き取った内容を頭で反芻して、うーんと唸る。

「容疑者になりうる決定打としては弱いような。女物の限定品だからといって、右輪折彦の所持品じゃない理由にはなりません」

「確かにな。だから警察は右輪を聴取しなかったそうだ。何せ、右輪と主婦の間にはまるで接点がない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。妻を殺されて憤慨する夫には、どこの誰でも犯人に見えるんだろう、と警察が相手にしなかった」

「今のところ僕も断定できませんけど」

「だから今、詳細な報告を待っている」

「それに……もし右輪折彦が犯人だとしても、被疑者死亡では、やはり僕としては不起訴としか言えません。遺族には同情するし、申し訳ないけれど……これは感情論じゃなく法律だし司法だから……日本は法治国家だし」

 僕は途切れ途切れに、言い訳めいた言葉を繋ぐのが精いっぱいだった。

 もし右輪が犯人ならば、法廷に引きずり出して公然と断罪してやりたい。だが亡くなった者を裁くことは無理だ。そう司法が定めている。

 凛然寺はつるつるの頬を最小限の動作で上下させた。

「仙台の主婦殺害事件はほんの二年前の事件だ。まだ時効の条件を満たしていない。たった二年だぞ。二年で罪は消えない」

「わかります。二○○五年から殺人の時効は二十五年に引き上げられたし、今は司法省が廃止案なども考えています。そうなんですよね。僕個人としては公訴時効の必要性に疑問を感じています。だって。凶悪犯が罪を犯したあと、指名手配されて警察に逮捕されるまでにも時間がかかりますからね。それから鑑定や裁判を含めると、事件によりますが一審判決まで十年かかることもある。それから公訴、二審、上告を経て、刑の確定まで数年かかってしまう。結局、凶悪犯が最初の凶行から刑を受けるまで二十年が経過する」

 僕は憤りのまま鼻息を荒げた。

「殺人の公訴時効が二十五年。けど逮捕後に犯人は裁判などで二十年近く生かされるんです。被害者となりうる善良な一般市民が払う税金が、凶悪犯に使われるんです。社会を脅かす凶悪犯にお金と時間をかけて改心させて、何か意味があるんですかね」

 つい饒舌に本音を漏らしていた。おほんと、ひとつ咳払いする。

「って、問題は時効じゃなくて。重要なのは被疑者死亡の部分ですよ」

「死んでない」

 凛然寺が珍しいくらいに雄々しく言い放つ。

「私たちは過去に戻った。ここは仙台の主婦殺害事件から数ヶ月経過した夏の検察庁だ。だから今この時点で被疑者は死んでいない」

 つまり、凛然寺の発言を信じるなら一年半前に戻ったことになる。僕はまだ十五歳で、旧司法試験に合格どころか受験すらしていない頃か。

 僕が返答しないことで冷静さを取り戻したのか、凛然寺は、多弁な自分を恥じるように顔を背けた。冷めた容姿とは裏腹に、凛然寺の心は犯罪者を憎む熱意が煮えたぎっているらしい。それは驚きの発見だった。

 しかし腑に落ちない点がある。

 右輪折彦には七件もの殺人容疑が挙がっている。そして最初の犯行と思われる事件は二十年前に起きたらしい。ここだ。ここが納得できない。

 もしも僕らが本当に過去に戻れるなら、最初の犯行を食い止めるために二十年前に遡るべきではないか。それが人道的な正義ではないのか。そして順次、殺害されたとされる七名の被害者を右輪折彦の魔の手から救っていけば、善良で尊い七名が息吹きを取り戻す。

 被害者の遺族が悲嘆に暮れることもなく、社会を恨むこともない。

 なぜ一年半前に戻ったのか。

 せめて二年前ならば、仙台の主婦に忠告くらいできるだろうに。

 簡潔にまとめて質問すると凛然寺は平坦な口調で一蹴した。

「私は歴史修正屋じゃない。救助隊でもない。特殊刑務官だ」

「人を救えるのに救わないんですか?」

 凛然寺の眼球がぎろりと尖る。

「救う? どうやって? 方法があるのなら自分でやればいい。そもそも私は犯罪者を裁く権限を持たない。本当は服役囚を更正させたいとも思わないし、また奴らが更正できるとは思わない。私はただ、奴らを存分に蹴り上げたいだけだ」

 凛然寺は横目でネロを覗き、ネロが軽薄な口笛で応じる。馴れ馴れしい態度はよせ、とでも言いたげな凛然寺は、汚らわしいゴミを視界から外すように無視した。

 ソファに深く背を預けたネロが後頭部で腕を組む。

「そんなに人を助けたいもんかね」

「当たり前です!」

「だったらポチは、念願の検事になったあと同時に警備員のバイトしとけ」

「はい?」

 意味不明な助言を解読できず、僕は目を丸めた。

「そんなに人を守りたいなら、検事やる合間に警備員やればいいじゃねーか。過去に遡って被害者を助けるのと大差ないだろ。命を守る。命を引き延ばすって意味じゃあな」

「お言葉ですけど。危機が肉薄してる被害者と安全な生活を営む市民を同列に考えてどうするんですか。それに。窮地の人命を救うのは人として当然ですよ。溺れる人がいたら飛び込むし、ビルから落ちそうな人の手は掴む。そうでしょう?」

 正義のヒーローならばそうする。

「当然ねえ」

 ネロはくつくつと笑いを噛み殺す。

「偽善者ぶんな。現実に人を救ってから言えよ。当然のことですってな」

「だからそれは二十年前に行けたらってことで」

「行けよ。ひとりで勝手に」

「いや、でも、僕の力じゃあ……」

 僕は言葉尻をすぼめた。

 今すぐ消えてしまいたい。急に恥ずかしくなった。思い上がった正義感を重いハンマーで叩きつぶされたみたいだ。どんなに意気込んでも僕には人智を超えた力などなく、ひとりで過去に戻れるわけもない。

 ネロは言っていた。

 死刑執行ボタンを押せば時間が移動すると。つまり死刑が必要なのだ。予め響子も、特殊検察官の試験を受けるチャンスは限られると口にしていた。

 時間移動には、死刑囚の罪が関わるのか。それとも死刑囚の命が要るのか。

 どちらにしろ、そう易々とは条件を満たせない。

 死刑囚の数は限られるし、執行日時も一定ではないし僕の知る情報でもない。そう考えると、個別に過去に戻って被害者を救う余裕はなかった。

 凛然寺の言葉が耳に蘇る。


 救う?

 どうやって?


 ネロが組んだ足をぶらぶらと揺らす。

「だから警備員のバイトしとけ」

「あの、警備員は今、何も関係ないと思いますけど」

「関係あんだろ。いいか。お前が救いたいって喚いてる被害者だって、殺されるまでは、平穏に一日を過ごす善良な市民なんだぜ。殺されるなんて想像もしちゃいねェの。もし察知してるなら用心するし、対策も練んだろうが。被害者は殺されたから被害者になるんであって、殺されるまでは、警備員が日々見守ってるような平和な市民だっての」

「でも僕は知ってます。すでに悲惨な未来を知ってしまってるんです。僕にできるかできないかじゃなく、気持ちの上で、感情で、被害者を放っておけません!」

「被害者七人ぜんぶ救いたいんか」

「もちろん!」

 正義のヒーローとはそういうものだ。

 僕は真摯な表情でネロをまっすぐ見つめた。訴える熱意はそれが純粋であればあるほど相手に伝わると信じている。そう信じたい。

「つーかポチ。七人の被害者を個別に救ってくより簡単なことがあんだろ。どうせ右輪を死刑にすんなら、二十年前にできること、あるよなあ?」

 僕は頷いた。

 個別に七人の被害者を救うより効率の良い方法がある。

「二十年前に戻り、密かに右輪折彦を殺せば七件の殺人は起きません」

「それそれ。ひとりひとり助けるより、ずっと手軽だわな」

 ネロは押し殺した声で含み笑った。



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