その13
つまりこういうことだ。
とある容疑者がいる。仮にAとしよう。
僕がAに相応しい求刑を算出する。
もしAが死刑に値する場合は、殺人鬼・ネロが死刑を執行する。
ネロを野放しにしないため、彼を指導し監視するのが凛然寺初音。らしい。
何度も何度も簡単な相関図を頭に描き直す。これで正しいのか。説明に不足はないか。
僕は混乱する頭を懸命に働かせた。
「それで肝心の容疑者とは? どこにいるんですか?」
ここが東京拘置所ならば、相手は容疑者ではなくすでに収容された服役囚である可能性が高い。凛然寺は一拍の間をおいた。ここで事前に打ち明けておくべきか思案している様子だった。やがて意を決した顔を持ち上げる。
「私たち特殊任務につく者は特殊な事件を扱う。その特殊な事件とは、過去に起きた事件がほとんどだ」
「過去。過去って、昨日とか先週とか去年のことですか?」
「他に過去があるのか?」
僕は急に不安に駆られた。凛然寺の発言は明らかに異常だった。みんなで過去に戻り、裁かれなかった犯罪人を断罪する?
「何言ってるんですか。過去に行けるわけないでしょう」
「できる」
「どうやるんですか?」
「これから我々は過去に戻る」
「だから、どうやって!」
僕はイライラと靴底を踏み鳴らした。凛然寺は表情を変えずに淡々と告げる。
「私が科学的に説明すれば論理的に理解できるか? なら説明してやるが」
「してください」
僕は今度は折れなかった。
みんなで僕を陥れ、騙し、馬鹿にしているのではないか。そう疑ってしまう。僕が理解するしないはさておき、最低限、小学生でも頷けるような説得力が欲しい。でなければ協力できないし、参加する意義を感じない。
「はいはい。そこまでな。あとは俺が説明してやんよ」
ちょうど背後でネロがぱんぱんと手を打つ。教師が生徒たちの注目を集めようと大きな音を立てる要領と同じだった。ネロが涼しい顔をしながら壁に向かって長い指を伸ばす。
「そこにある壁のボタンを押せば過去に戻る。わーったか?」
「わかりません」
「行けるんだからよくねーか? 何お前。電子レンジを使う時、ボタンを押して蓋の開け閉め以外のこともいちいち考えんの? パソコンを起動する時、ボタンを押す以外に電気配列だとか文字変換や起動ソフトの仕組みもいちいち? テレビの電源を入れる時に、ボタンを押す以外に電波がどこへ飛んでどう流れるか考えるんか?」
「考えませんけど、科学的に理解できるじゃないですか。それは」
「へえ、できるんか」
ネロは挑発的な嘲笑を浮かべた。
「なら説明しろや。テレビの仕組みと電子レンジの仕組みを教えろ。今すぐ俺に教えろ」
「子供みたいなこと言って誤魔化さないでください」
「誤魔化してねーよ。理屈は一緒だろうよ」
「質問返しは反則です。そちらが先に答えてください」
子供がいやいやするように僕が首を振ると、ネロが面倒くさそうに頭を掻く。
「めんどくせーな。根本的に俺とポチの会話次元が違うんだぜ。土台が別物なんだよ最初から。いいか。ポチが家を出る時に扉を開けるだろ。それはどこに繋がってる?」
「外です」
「そうだ。外だ。扉を開ける前は家ん中だが開けると外がある。それはわかるんか?」
「わかりますけど」
「同じことだな。俺があの扉を開けるまでは、ここが今現在……まあ現代とすっか。現代だけど、俺が開けたら扉の向こうは数年前の東京拘置所になる。わかったか?」
「わかりません」
「なんでわからんかね。お前ん家は、扉ひとつで内側と外界を遮断してる。それがお前の理解できる常識。俺の常識は、扉ひとつボタンひとつで時間も変化すんの」
はぐらかされているようで腹が立つ。
子供だと侮られるのは気にくわない。言いくるめられるほど幼稚でもない。マジックならばどこかに種があるはずだ。
ネロは降参するように両肩を揺らした。
「ダメだ凛然寺。頭で理解できねー奴は行動で示してやらんと。さっさと始めようや」
「待て。まだ時間まで五分ある」
凛然寺は険しい顔で時計を確認した。なぜ五分後なのか。僕はいつでも玄関の扉を開けられる。だが彼らがいう時間移動は、一瞬の隙間を縫うように、しかも定刻でしか時間移動ができないというのか。それは道理が立ちゆかない。
僕の顔色から心を察したのか、ネロがのそりと、鈍重な動きで立ち上がる。まるで冬眠から醒めたばかりの熊だ。
ネロは正面の壁に備わる小窓を開けると、僕に見えるように中を指さした。
「いいかポチ。五分後にこのボタンを押す。そしたら時間移動する」
「そのボタンは何ですか」
僕は素っ気なく、できる限り無愛想に投げかけた。しかし僕の態度とは裏腹に、ネロは舌なめずりしながら下品に笑う。
「死刑執行ボタンって言えばわかんだろ。ここは拘置所の地下の地下だかんな。ちょい上の階じゃあ、今まさに死刑囚が刑を執行される直前なのさ。布に覆われた身体を大勢の刑務官たちに押さえ込まれて、首に縄をかけられてる頃かね」
僕は目を瞠った。呼吸がうまくできない。
「司法を囓ってりゃ少しはわかんだろ。刑場の隣ん部屋にある執行ボタンは三つ。選ばれた三人の刑務官がボタンを押して刑が執行されるが、誰が本当の執行ボタンを押したかわからんようにしてある。相手は死刑が確定した重犯罪者だとはいえ、自分の手で人命を終わらせるわけだかんな。刑務官の罪悪感を減らすために考えられた譲歩案ってヤツ。ボタンの二つはダミーってことだ」
今まさに死刑が執行する?
すぐ階上で?
「けど本当は三つともダミーの場合がある。俺がここでボタンを押す場合、階上のヤツは三つともダミーだ。見な。このボタンが本物の執行ボタンだぜ?」
僕は言葉を失った。
ボタンは赤色で、銀色の金具が周囲を保護している。横断歩道に備わった、変哲もない信号機ボタンみたいだ。
あれが死刑執行の合図。
ボタンひとつで死刑囚の命を奪い去る――。
奥の壁際にいたネロがいつの間にか、目で追えない敏捷さで僕の脇に立つ。そして馴れ馴れしく僕の首に腕を回し、耳元でささやいた。
「どうだポチ。お前は何を信じる? 時間移動を信じないか? 死刑執行を信じないか?
死刑執行ボタンの効力を信じないか?」
ネロの低い声が禍々しい響きを孕む。
「俺の言葉が嘘だと思うなら押せ。ポチだけにお前がポチっと押してみろ」
「や。だって……」
「何言ってやがる。嘘だと思うならできんだろ。簡単だ。ボタン押すだけだかんな。でもよ、逆にすべてを信じるとしても……押せるよな?」
ネロの生臭い息が獣のそれに思えた。
「押せよ。相手は死刑囚だ。お前の目指してる検事が求刑した死刑なんだぜ? まさかお前、自分では死刑を求刑するくせに執行はしたくないなんて、言わねェよな?」
「それは……」
「求刑する口は正義でも、執行する手は穢らわしいか?」
恫喝の口調で正論を突きつけてくる。
ぞくりとした。なぜか膝ががくがくと笑う。司法の総意で求刑した死刑と現実に執行する死刑は同じ。厳密には同じだ。同じだけど――。
ネロの怪力が僕の手首を掴みあげる。
抗っても、どんなに力一杯抵抗しても、重量感のある巨体を引き剥がせない。ネロは獲物をいたぶる猛獣のように圧倒的な力をもって僕を屈服させる。
固く握る僕の拳が一本ずつ丁寧に指を引き剥がされ、人差し指を伸ばされる。ネロは、僕の指先をボタンへと近づけた。一瞬にして顔中に脂汗が噴き出した。あれは死刑執行ボタンだ。重心を後ろに預けて、腕を引き抜こうと試みたが抜け出せない。
助けてくれと、悲鳴をあげたかった。
「押せよ。どうした。司法のしもべ」
「ネロ」
乾いた凛然寺の声が届く。期待していた仲裁はなく、ネロへの叱咤もない。ただ機械のように淡白に言葉を落とす。
「時間だネロ」
「あいよ」
ネロは僕を軽々と放り投げると、事も無げに、僅かな躊躇もなく、赤ボタンを押した。
砂袋を叩きつける重たい音が階上から聞こえた。空耳かもしれない。自分の恐怖が生み出した幻聴かもしれない。でも本当に絞首刑の音が届いた気がする。
ネロの言葉は本当だろうか。
すべて嘘かもしれない。
だけど――階上から伝わる震動――暴れるようにもがくイメージ――不意に大きな箱が落下したような違和感のある物音を、僕は一生忘れないだろう。
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