その11
東京拘置所――司法省矯正局、東京矯正管区に属する拘置所である。
かつて巣鴨プリズンと呼ばれた刑務所は、葛飾区小菅に移転する際に東京拘置所と名を改めた。総務部、処遇部、分類部、医務部の四部制施設になっており、建物自体は改修後には十二階建ての地下二階、およそ五十メートルもの高さを誇っている。
主に刑事被告人や懲役受刑者、そして死刑確定人など約三千名を収容する日本最大規模の刑務施設だ。
存在は知っていても、これまで足を運ぶ機会がなかった。
ドラマで見た風景とはまるで別の印象を受ける。薄暗さは脳内イメージと遜色ないが、実際はもっと不潔で陰惨で圧迫感のある場所だと想像していたのだ。
廊下の突き当たりを左折すると階段があった。
そこで待機する凛然寺の仮面に僅かな感情が迸る。僕の行動について、遅いと文句をつけている顔だった。そして、先に昇れ、と顎を振る。
僕は素直に指示に従ったが、二・三段昇ったあたりで足止めされた。凛然寺に上着を掴まれて力任せに引き戻されたのだった。受け身をとる余裕もなく、階段を転げ落ちて後ろ壁に激突する。自分が尻餅をついたと気づいた時には、そこに凛然寺の姿はなかった。
凛然寺は廊下の端まで駆けてゆき、崩れ落ちたネロを警棒で容赦なく折檻する。打つべし打つべしと腕の上下運動を繰り返す凛然寺が放つオーラはどす黒い煙に見えた。
何があったんだ。
痛む腰と背中を手でさすりながらゆっくりと立ち上がる。すると、無抵抗を示すように両腕をあげて降参するネロと、その背後に、厳しい面持ちでネロの脇腹に警棒をあてる凛然寺が揃って戻ってきた。
「無駄な抵抗はやめろ」
「わーった。俺が悪かったウン。謝るから。な。さーせん」
「無駄口を叩くな」
凛然寺は右手の警棒をネロの背中に振り下ろした。ネロは小さな悲鳴をあげて、畜生と呟く。僕の視線に気づいたネロはバツ悪そうに苦笑した。
「さて問題です。俺みたいに、戦士の気質がある奴は逃げ足が早い。なーんでだ」
「え。問題の意味がちょっと……」
とぼけた返事をしながら、脳を活性化させて必死に考えた。考えて考えた。出題されてからというもの、僕はまだ一問も正解していない。焦心する。僕は、どんな問題であっても答えられて当然という顔で、さらっと答えたいタイプなのに。
ネロはべろりと舌を出した。
「答え。とうそう本能があるから」
「ああ!」
思わず口をついて出た。そして慌てて右手で上顎を押さえる。ああ、などと驚嘆の声をあげることは負けを認めたも同じじゃないか。恥ずかしい失態だ。
それにしても――闘争心がある者は逃走本能がある、とは。
僕は口唇をひん曲げた。
「それ、ダジャレじゃないですか」
「答えが駄洒落になってる謎々もあんだよ」
「知りません」
「てか、凛然寺とポチが勝手にすたこら歩いてくから悪りィんだろ。隙ができりゃあ、そら俺だって逃げたくなるぜ、んなモン。そっちの落ち度だろうが」
「それは一理ある」
凛然寺はふむと頷き、警棒のグリップをわざとらしく握り直した。その刹那、ネロの背筋が大きく仰け反り、裂けた口から痛々しい呻き声がこぼれ落ちる。
電流が流れているのかは特定できないが、凛然寺が警棒を操ると、ネロの動きを止める物質が注入される仕組みだと推察できる。
凛然寺はポケットから腕時計を取り出すと、僕へと放り投げた。
「今すぐ装備しておけ」
時計を左手に巻き付け、ぱちんと留め金をはめる。
「それは発信器になっている。押すボタンによってはネロの位置を探知でき、そしてネロの背筋に仕込んだ機器を介して攻撃することも可能だ。もしネロが不審な動きをしたら、即座にボタンを押せ」
「わかりました」
常套句で生返事するも、どのボタンが何なのかがわからないので、実際に一度試してみたい。時計をまじまじと観察する。時計の形をしているが時刻表示はなかった。
盤面に謎の刻印が幾つか彫られており、縁取り部分に数個の突起が備わっている。これがボタンだろうか。時計型のスパイ小道具みたいなものが実在するとは驚きだ。
ネロが冷や汗を流し、指を交互に組み合わせた祈りのポーズを僕に捧げる。さすがに、何もしていないのに罰を与えるのは可哀想だった。
凛然寺が片眉をはね上げる。
「なぜ躊躇する。司法省側の人間だろう?」
「司法サイドだからです。彼はすでに罰を受けているので……あの、不起訴で」
「ほう」
凛然寺は頬を引きつらせた。だがそれも一瞬限りで、すぐに表情を無に返す。
「ちなみにそれは私の発信器とも通じている。まだ試験期間だとはいえ、おかしな真似をすれば必ずあとで拘束する。どこへ逃げようとも追ってゆく。ふたりともだ」
どこにも逃げません。そんな気はさらさらありません。
凛然寺の迫力に圧倒されたせいで咽喉が萎縮し、声にならなかった。
「ネロ。ふざけた真似をするな。次は半殺しにしてやる」
「さーせんべろべろばー」
ネロは顔面の筋肉をぐにゃりと歪ませて道化師のごとくおどける。凛然寺はそれを無視し、階段を上がれと眼球の動きだけで僕に指示した。
短い階段の先には、ビルの非常階段に取りつけられた硬質なイメージの扉が待ち構えている。ノブではなくアルミのレバー式だった。
中は十畳ほどの個室で、壁紙は落ち着いたクリーム色で統一されている。
田舎の駅にある待合室みたいだった。木枠のベンチが二列に並ぶだけで、他にめぼしい家具や装飾品は見当たらない。
扉に近い後方のベンチに、凛然寺が率先して腰をかけて足を組む。指示を待ったが特に用事がなさそうなので、恐る恐る前方のベンチに座ってみた。凛然寺からの叱責はない。ほっと息をつくと、図々しい態度でずしりとネロが相席してくる。
「その信号は使うなよ。頼むから」
「……はあ」
左手首に目を落とす。罰則の痛みが嫌なら逃げなければいいのだ。
とはいえ、まだ使い勝手がわからないのでどんな効果をもたらすのかは興味がある。あるけど、興味本位や冗談でいじって良いものでもない。
「戯言に耳を貸すな。奴の口車に乗せられ、下手に使用して機器を壊したらどう責任をとるつもりだ」
それもそうだ。僕は式典に参加するような気構えになり、深く着席し直した。ネロが退屈そうに欠伸をする。室内はしばらく、しんと重い静寂に包まれた。
耐えるのは一分が限界だった。
僕は意を決し、凛然寺を振り返って質問した。
「すみません。ここで何をすればいいんですか」
「待機だ」
「待機して、それから何を?」
「それはいずれわかる。今話しても意味はない」
「はあ」
にべもない返事だ。質問するな、に聞こえてくる。凛然寺が頻繁に時刻を確認しているので、正確な時間が関わることだけは明白だった。
「……あの、凛然寺さんは何の役目をしているんですか? 僕らの監視役ですか?」
「私は特殊刑務官だ」
「特殊刑務官」
僕は馬鹿みたいに彼女の言葉を繰り返した。特殊――またこの言葉だ。僕は特殊検察官のテストを受けているし、凛然寺は特殊刑務官だという。
「私は特殊刑務官として、そこの殺人鬼を見張っている。面倒も見ている。私はネロを担当する看守みたいなものだ」
「殺人鬼の看守……ですか」
「なぜ繰り返す。聞こえなかったか?」
「いえ、すみません」
僕は恐縮して身を縮めた。




