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特殊執行鬼 ネロ+  作者: 田中志摩貴
10/27

その10

 *


 凛然寺は立ち止まったまま腕を組んでいるし、ネロは動物園の白熊のようにぐるぐると室内を歩き回った。その間、ネロの歩行が起こす衣擦れの音が断続的に続くばかりで誰も喋らない。僕も口を噤んだ。ここで何をしているのか質問することもはばかられ、息が詰まる思いで沈黙に耐えた。心理的なものが作用したのか、室温が二度ほどあがった気がする。ようやくネロが立ち止まると、方向転換して、なぜか響子の私室に繋がる横開きの扉に手をかけた。忘れ物をしたのだろうか。

 凛然寺が顔をあげ、顎をくいと振って僕に合図を送ってくる。

 ついてこい、と指示しているらしい。 

 ネロと凛然寺の後ろをついてゆくと、扉は別世界に繋がっていた。同じ扉を潜ったのに先ほどまで存在していた豪華な私室はどこにもない。ふかふかの絨毯も装飾過多なシャンデリアもない。僕は我が目を疑い、背筋が凍るほど驚愕した。

 廊下だ。

 寒々しい鉛色に塗り固められた壁がまっすぐ伸びる通路は横幅が狭く、三メートルに満たない。長身のネロの頭頂部から随分と余裕があるので天井はそれなりに高そうだ。

 堅牢な刑務所を連想させる光景に衝撃を受け、今度は自分の体温が急激に下がるのを実感した。自分を抱きしめるように両腕を組むと、凛然寺が振り向かずに告げた。

「ここは東京拘置所の地下の地下だ」

「え」

 僕は咄嗟に聞き返した。聞こえなかったわけじゃない。信じられなかったからだ。

「でもさっきまで検察庁にいましたよね」

「さっきは霞ヶ関で今は葛飾だ」

「え。あの、どういうことか僕にはさっぱり……」

「移動したから別の場所にいる」

「え、ちが、だって……どうやって移動したのかなって」

「何処でもドアだと思えばいい。知らないのか。扉を潜ると別の場所に移動する装置だ」

 僕は唖然として口が半開きになった。

「何ですかそれ。そんな説明あります? それは想像の産物じゃないですか。もっと論理的で科学的な説明をしてくれないと納得できませんよ」

「くだらん!」

 凛然寺は大声をあげると、かつかつと靴音を規則的に響かせて回れ右した。僕と対峙する両眼が研ぎ澄まされた刃物みたいに鋭かった。

「口で説明して理解できるのか? 納得できるのか? この世界における時空がどのように存在しているのか、時間がどう連動しているのか、お前はこの世界のすべてを科学的に把握しているのか。もしもわかっているなら、今の事象を説明してやってもいいがな!」

「あ。いや」

 凛然寺の強い語調に気圧され、僕は完全に怯んでしまった。強い眼力に数秒睨みつけられ、目を泳がせる。何の逆鱗に触れたのかもわからないまま、僕は言葉を見失った。

 凛然寺がふんと鼻を鳴らして顔を背ける。

 その時、音声になっていなかったが、口唇の動きが「馬鹿が」と揺れた。僕は少なからずショックを受けた。幼少の頃より周囲の人々から頭脳明晰と誉められて育ったので、馬鹿だと蔑まれた経験がない。怒りは湧かないがやるせない気分になった。

 凛然寺はネロを押しのけて前方を進んでゆく。

 きひひと下品に笑うネロが近寄ってきて耳打ちする。

「凛然寺は怒りっぽいかんな。気にすんな。あいつはいつも怒ってて口が悪りィの」

「はあ」

 初対面の人間に張り手する奴に言われたくないけど。

「おし。俺が説明してやんよ。例えばな、んー、そだな。広い家があるとしよう。その家には裏口がなく玄関がひとつだと考えろ。出入り口はひとつだから、裏庭に行くためにはスタートする場所によってはぐるりと遠回りするわけよ」

「はい」

「けど裏口を作ればすぐに裏庭に行ける」

 それは当たり前だ。

「その裏口に値するのがさっきの扉なんだな。響子んとこにも通じるし拘置所も通じるし別のとこにも通じてる」

「扉ひとつで?」

「おうよ」

 なぜ開けたり閉めたりするだけで行く先が変わるのか、謎だった。

 ネロがひょっこり肩を竦める。

「お前は扉を何だと思ってんの。ドアだぜドア」

「部屋と部屋を繋ぐ出入り口ですよね?」

「そそ。それ正解。わかってんじゃん」

「はあ」

 僕は首を傾げながら曖昧に返事しておいた。ネロが長い指先で僕の肩口をつつく。

「餓鬼はな、理解できんことは理解しなくていいんだとさ。お前は自分のこと頭がいいと思ってんだろ。ならそれで充分だろうよ。理解してる分だけ理解してればいい。けどポチが理解して納得したことだけが真実とは限らんかんな、言っとくけど」

 よくわからない。

 僕はぽかんと間抜けな顔でネロを見つめると、豪快に笑われてしまった。

「わーった。犬でもわかるように説明してやるから聞いとけ。いいか。足し算も知らない赤ん坊に因数分解を教えても無駄だろ。凛然寺はそういうことを言ったんだ。俺もな」

「つまり馬鹿にされたってことですね」

「おいポチ。また短絡的だって揶揄られんぞ。赤ん坊が因数分解を知らなくても問題ねーの。どんなに教えろとせがまれて、もし仮に赤ん坊が理解できたとしても、赤ん坊には使い道がない。だろ」

「……もういいです。ありがとうございました」

 僕はあからさまに拗ねた口調で礼を述べた。

 説明しても無駄だと決めつけられて、とことん気分が悪い。

 僕には理解できないと頭ごなしに判断する方が傲慢じゃないか。僕は苛つく気持ちを霧散させようと、大きく深呼吸した。



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