第五部 「慰檻の手械」 1
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これはずっと昔の少女の記憶。
当時の少女にはここがどこなのかすらも理解できていなかった。薄暗いその場所は冷たいコンクリートの壁に囲まれ、あるのは換気用の小さな小窓だけだった。息苦しいその部屋は生臭い男の臭いが染みついていた。
臭いの発生源は彼女以外の少女たちからだった。
さまざまな名称で呼ばれているがこの場の少女たちは全員が慰みものとして集められた。
彼女も近いうちにそうなるだろう。
この場にいる男は十人前後だったこともあって彼女がここに入れられてから三か月間を乗り切ることができたが、貞操を失う覚悟はできていた。
あとで知識として知ったことだが、この場の男たちが使っているのがフランス語だったため自然に覚えていた。
コンクリートの檻に囲まれた空間には様々な人種の少女たちがいた。
になっても名前すら持たない彼女は死んだような目つきで毎日与えられる腐りかけの鹿肉を食べる。
正直美味しいと思ったことなど一度もなかった。
火を通してあるのはせめてもの優しさかもしれないが腐った世界であることには変わりない。
そんな男の慰みの檻を称して『慰檻』と呼んでいた。
この檻の中で純潔を持っているのは彼女を含めて数名だけだ。
いつ解放されるかもわからない下衆な世界に変化が起きたのは突然だった。
政府の警察が檻の制圧を行った。
長らく太陽の光を浴びていなかった少女たちは久しぶりに日光を浴びた。
解放されると思った少女たちも少なくないだろう。だが人間の欲と言うのはどこまでも皮肉だった。
政府の警察は少女たちが病気を持っていないことを確認すると手のひらを返したように少女たちを襲った。数少ない純潔の少女たちも餌食になり、彼女もその対象となった。
しかし、一瞬のことで状況は一変する。
しばらく動いていなかったことで彼女は抵抗するような力がないことを知っていたことでその男は彼女の両手を抑えていなかった。
自分のものを出そうとしているときに腰に備えた拳銃が彼女の手元に転がった。
手に取った瞬間の重量感は長い時間が経っても忘れない。
そして自らの純潔のために銃口を向けた。
そのときの男の顔を一生忘れないだろう。
正義の警察官とは思えないくらいに醜い顔をしたあの瞬間は彼女を人間不信にさせるには十分な出来事だった。
警察の不穏な動きを感知した政府軍がその直後に突入した。
その過程で二人の少女が警察官の道ずれにされた。
セフィラス。
ターニャ。
二人の名前は知っていた。
彼女は小さなケガこそしたが貞操と命を守りイスラエルの警察病院に移送された。
警備は万全だった。
近くで温泉でも湧いているのか硫黄酸の匂いが漂う病院。
しかし彼女が警備のすべてを信じることはなかった。
それは。
『正義を信じない』
からだ。
そんな時、彼女の身元引受人が名乗りを上げた。
殉職者のようにも見え犯罪者のようにも見える方向性の見えない男性とその妻にあたる美しい黒髪の日本人女性はぬくもりある笑顔で彼女を出迎えた。
だが彼女は知っている。温もりのある笑顔の裏に隠れた人間の恐ろしさを短い人生で痛感していた。
だったら、と夫婦は提案した。
一枚の写真を彼女に手渡す。
それは日本人の少女だった。
年下なのか同じ年なのか判別しづらかったが先に夫婦が自分より一つ年下であるということを説明してくれた。
黒髪をした少女は無邪気に笑っていた。
その写真を見て、少しだけ羨ましいと思った。
生まれてまともに笑ったことがあっただろうか。
この少女と一緒に居ればこのように笑うことができるかもしれない。そのようなことを考えた。
そして、夫婦は提案した。
会ってみる気はないか、と。
会うだけなら、と条件を呑んだときにはもう先のことは決まっていたのだろう。
少女に会ってすぐにこの少女は嘘をつくことができない、吐こうとしても相手のことを先に想いやってしまうようなお人好しであることを直感した。
その直感は見事に的中する。
出会いの先に夫婦は言った。
「僕たちは信じなくていい。でも、この子だけは信じてくれないか」
それからのことは怒涛の日々だった。
――君の名前は?
ない。――
――だったら君は何と呼ばれたい?
何でもいい。そう答えようとしたがそれは今までの出来事を忘れてしまいそうな気がして答えるのを止めた。
鼻につくような硫黄の匂いで思い付いた。
「イオウ、イオリでいいよ」




