第四部 「赤銅の航海者」 10
Ⅲ
慣れない欧州のせいか結局ほとんど寝つけずに時計が日付を変えるよりも前に目が覚めてしまった。再び寝付ける自信もなかったので痛む身体に鞭を打って立ち上がり、松葉杖をつきながらホテルのベランダに出る。
ベランダから見えるスペインのビルバオの夜景は日本とは違った印象があった。全体的に石造りの家が多く中世ヨーロッパの影響が強く残っているように見え、街灯もガス灯で中世的な要素を醸し出している。
ヨーロッパの冬は日本とは違う寒さを感じる。北海道のように毎日雪が降るわけでもなく冷たい風が吹いている。
携帯の番号を押して数回のコールの後に電話の相手は出た。
『どうしたんですか? こんな時間に』
「菜月か。ちょっとシャルンの様子が気になってな」
さすがに寝ていたのではないかと心配したが電話口で伊織やアリシアの声も聞こえるのでまだ話し込んでいたのだろう。
「あれから持ち直したか?」
『いえ……。ずっと塞ぎ込んでいて、とてもじゃないですけど「シャルンホルスト」の操艦を任せられるような状態ではないですね……』
「……。そうか」
すでにビスマルクが亡くなってから五日が経過した。
少しでも立ち直ることができているのではないかと淡い期待をしたがそれはかなうことはないようだ。
むしろ親友を失ってすぐに立ち直れる人間はそう多くない。
どんな人間でも塞ぎ込んでしまいたくもなるだろう。
『シャルンさんがいないと作戦がきついんですよね……。伊織さんが言っていました。砲台艇の防衛ラインを破るには装甲の厚い戦艦が必要で、シャルンさんのように被弾に動じないような船が必要だ、って……』
「……。伊織に大当たりだって伝えておいてくれ。正直、打つ手がない」
『とりあえず、というのは問題ですけど船が着き次第榮倉さんと合流させます……』
「分かった。シャルンとちゃんと話してからすべてを決める」
ひゅう、とベランダをビル風が吹き抜ける。
さすがに長い時間ベランダにいると風邪をひきそうだったのですぐに部屋に戻った。
『フランス当局ではイタリアとイギリスの軍艦が競合して反転海域に攻撃をしかけていることを奇妙に思っているみたいですし……』
現段階での世界が反転海域に対する認知はないと言っても過言ではない。
反転海域にもっとも近いフランスやスペインでもこれと言った動きはなく、イギリス軍も悠長に構えている。浸食が比較的ゆっくりであることや近づかなければ何も影響がないことも理由にあるのだろう。
一部では《戦人》の先日のビスマルク暗殺事件の報復ではないか、という見方もある。
戦人当人からすればこれ以上ないくらいのこじ付けだが、反応する余裕があるとは言えない。浸食の遅延がいつまで持つかはその時が来るまでは分からない。
「仕方ないな。今回の件はほとんど独断でやっていることだ。宮崎から出向させた『シャルンホルスト』と『紀伊』も無理やり連れてきたようなものだし」
『そうだとしても認知度の低さは問題じゃないんですか?』
菜月の言おうとしていることは理解できる。
世界の認知度の低さは異常なくらいだ。戦人が現れた直後は殺気立っていた日本も次第に静まりを覚えている。まるで攻撃してこないなら別に良いのではないか、と主張しているかのようだった。
「菜月、これだけは覚えていてくれ」
改まった物言いに菜月は息をのむ。
「俺たちの戦いは誰も気づかないくらいの方が平和なんだよ」
『でも……』
「それより、予定とは違ったけどフランス旅行はどうだ。楽しめている、とは言えないかもしれないけど満喫はできているか?」
『は、はい。伊織さんはフランス語が分かるみたいで苦労せずに済んでいます。さっきまではパリでエッフェル塔を見に行っていたんですよ。夜だと違った顔が観られて良かったです。アリシアさんは本当ならフットボールの試合を見ていたのに、と言っていました』
「そりゃ悪いことをしたな。他にはどこか行ったのか」
『あとはルーブル美術館にも行きましたよ。昔のヨーロッパが集結されたような場所でした! あとはヴェルサイユ宮殿ですね。マリーアントワネットが住んでいたんだと思うと感慨深かったです』
思いのほか菜月がフランスを満喫してくれているようで安心した。
心の底から楽しめているかは分からないが日本ではできない経験をフランスでできたのであれば良かった。
後ろで聞こえる伊織の声も明日の予定を決めているようでどうやら遠出して明日はロワールにある古城のシャンボール城を観に行こうと計画しているようだ。
「そうか。明日も楽しむんだぞ」
『はい。大和さんもどうかご無事でいてください……』
「ああ」




