第一部 「暁の水平線に」 6
Ⅸ
《フィリピン海》
ある野球漫画で打たれたあとの切り替えが重要だという話を聞いた。仮に一点取られたとしてもそこで相手の勢いを止めてしまえば逆に自分たちの流れにできるということだ。口で言うのは簡単だ。
それを実行できるピッチャーは素晴らしい選手に成長できる。
結局のところ人生だって野球と同じだと思う。たった一球が試合を左右するようにたった一瞬の出来事で未来は左右される。
だから榮倉大和は後ろを振り向かない。
起こってしまったことが変えられないのならばこれから起こることを徹底的に変えてやればいい。今までだってそうして生きてきた。
医務室に何分籠っていただろうか。
ベッドから立ち上がって部屋を出ようとしたとき不意に背後から声をかけられた。
「ようやく動くのですね」
サラサラな蛍光灯の光を照り返すほどの美しい銀髪がさらりと揺れる。
神々しさすら感じる彼女は天使の生き写しにすら見える。榮倉は思わず。
「さつ……っ!!!?」
度肝を抜かれたような表情で必死に言葉を飲み込む。
ありえない。
榮倉が思い浮かべた人物に雰囲気が酷似していたが彼女は違う。
「さつ?」
「いや、悪い今のは忘れてくれ。君は?」
無表情のまま首をかしげている少女はジッと碧眼で見つめてくる。
「アリシアです。アリシア・ヴィエラ・クレアです。今からどこへ行くつもりですか?」
「どこって言われてもな。いつまでもここにいるわけにはいかないだろ」
「戻ったところで何ができるのですか? あなたがいなくてもこの船は回っています。今更あなたが行ったところで」
「……。」
言葉が出なかった。
彼女の言うとおりだからだ。
これは榮倉が勝手に判断し、動いているだけで誰かがそれを望んでいるかと言われれば言葉が出ない。
今戻って何ができる。
イージス艦の乗務員の命を守れなかった榮倉に何ができるか。
言葉に迷っていた時だった。
けたたましい警報音が艦内に響いた。
「これは!?」
「どうやらゆっくり話をしている余裕はないみたいですね。緊急配備の警報です。近くで何かあったのでしょう。あなたがどうするのかとあなたが何をしたいのかはまた今度聞きます。それまでに答えを決めてください。誰もあなたの選択を否定なんてしませんので」
銀髪の少女は踵を返して駆け足で医務室から飛び出した。
再び一人残された榮倉は唇を噛む。
「何がしたいのかだって? そんなの決まっているじゃねえか!!」
人間というのは後ろを向いているうちは前に進めない生き物だ。悲劇を目の当たりにして『停滞』するか『進捗』するかは自分次第だ。榮倉大和はずっと昔から決めている。絶対に『停滞』することはないと決めている。仮に『追憶』することがあっても復することはない。
榮倉大和はそうやって生きるしかないのだ。
ひたすらひた向きに前進することを義務付けられている。
結果がどうなるのかは後付けで良い。
ただ結果が良い方に向くことだけを願うばかりだ。
意を決した榮倉は医務室を飛び出した。
最初に通った廊下を通って外へ出る。
外はすでに夕暮れだった。太陽が海面に反射していて状況は把握しづらい。
直後に前方の主砲が火を噴いた。
「どこに撃っているんだ」
弾道を追うがそこに敵艦の姿は見えない。
一瞬照準ミスかと思ったが続けざまに同じ場所に砲撃が続く。
どのように見ても照準ミスには見えない。
つまり敵は海中にいるということだ。敵は潜水艦ということになる。
「何やってんだ。潜水艦相手なら撃ったところで……」
砲撃の直後に太陽の反射でほとんど見えない海から泡状の船跡のようなものが見えた。
ヤバい。
背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
それが何なのかはすぐにわかった。だが、それを見張り員が見つけているかははっきり言って微妙なところだ。
このままだと沈む。焦りと不安が波のように押し寄せてくる。
「距離は大体5000ってところだったな……。間に合うか……? いや間に合わせないと!」
依然として艦は回避行動を取る様子はない。
このままでは被弾する。
榮倉は艦橋に走った。
主砲塔の陰にある入り口から指令室のある上階にはしごを使って駆け上がる。
ここまでに十秒ほど要してしまった。
距離はもう半分もないだろう。
時間の余裕はほぼない。榮倉は勢いよく最後の扉を開くとたくさんの人がいた。彼らに向かって叫んだ。
「舵を右に切れ!!!! 今すぐに!!」
真っ先に声を上げたのは指令室にいた菜月だった。
「大和さん!?」
「良いから!! 面舵一体だ!!」
驚いている菜月に代わって近くにいた三十代後半くらいの男が。
「やれ。何があるかは分からんがとりあえずやるんだ」
「は、はい」
仕方ないとばかりに舵を握っていた乗務員が舵を思い切り右に切る。
「減速もしてくれ! このままじゃ当たる!」
「……。」
不満そうだったが指示通りに乗務員は減速させる。
一気に転換したことで船全体が傾く。榮倉はその間に見張り台にはしごを使って上る。
上っている最中に泡状の雷跡が駆逐艦の真横をすり抜けた。
「なんだ!? 今のは!」
見張りにいた一人が仰天していた。
榮倉が答える。
「魚雷だ。相手は潜水艦だぞ。主砲を撃ったところで弾丸は海面に着水すれば一気に減速するんだ。それだとどうしても海中の潜水艦まで弾丸は届かない」
「あんたは」
「ただの死に損ないのただの自衛隊だ。雷跡から方角は北北東で間違いない。ここはあなたに任せます。次は見逃さないでください」
「あ、ああ……」
榮倉は見張り台から降りると今度は艦橋の下、レーダーのある部屋だ。榮倉は駆逐艦の内部構造に詳しいわけではないが室内の重要設備は大抵駆逐艦もイージス艦も似通っている。自然とどこにどの設備があるかは予想できた。
榮倉の入った部屋は海面のレーダー探査を行っている部屋だ。そして同時に水中ソナーも装備されているはずだ。
「ここにアクティブソナーはあるよな」
「一応あるが……。なんだよ急に」
「貸してください。反撃します」
榮倉は有無を言わせずに座席に座ると操作する。
「おい! 何を勝手に!」
「だったらここで海の藻屑になりたいのですか! このままではいずれ被弾する!」
声を荒げる榮倉をなだめるように艦橋から先ほどの男が降りてきた。
「良いからやらせなさい。私たちにはそういった技術はないんだ。彼に任せよう」
「ありがとうございます。とにかく今は時間がありません。アクティブソナーの準備にどれくらいかかりますか」
「今すぐにでも使えるよ。どこに向かって打てばいい」
「北北東です。動きながらで構いません」
「わかった。みんなやってくれ」
「……。はい」
榮倉がヘッドホンを付け数秒ほど機材を操作する音の直後に三回のソナー音が艦内に響いた。
「……。」
艦内に自然と静寂が訪れる。
数秒の沈黙ののちに榮倉の耳に反響が返ってきた。
「距離3600! 深度20メートルだ! 爆雷を準備してくれ! 使えるはずだろ!」
「ああ、だがあれはそもそもなんに使うのだ? 設計にあったから積んでいたが意図が分からんぞ」
男の言葉を聞いて榮倉はこの艦の乗務員の決定的な弱点が露呈したと思った。
通常の乗務員は少なからず自艦の性能は兵装の使い方など戦法というものをいくつか頭に入れてあるものだ。それによって連携力や精度を上げられる。だがこの船に乗っている乗務員は完全にその戦闘艦に乗る最低条件が満たされていない。
この船の乗務員に知識がないのだ。
「潜水艦を攻撃します。問題ない、ですよね」
「ああ……。このままだとこちらが沈むからな」
「それなら爆雷を先ほどのポイントの投射してください! 今すぐに!」
「わかった……。聞いた通りだ。みんな爆雷をこのポイントに入れろ」
「了解です……」
しばらくの準備の後に艦上で爆雷が火を噴いた。
着水音がヘッドホンから聞こえる。数秒の沈黙の直後。
激しい爆音と同時に巨大な水柱が三本上がった。
「……。直撃は避けたか……。もうすぐ浮上するかもしれない! 全主砲を浮上予想ポイントへ!」
これにより駆逐艦『桜』の初戦闘は榮倉大和一人の判断で勝利を得られた。
今後、行われることになる艦隊決戦の開戦の狼煙はこのフィリピン海でこっそりと上げられた。