第三部 「幽霊船の航路」 10
Ⅱ
これは出発前のことだ。
出港が明日に急遽決まり真夜中まで準備に明け暮れ、眠い眼をこすりながら朝の支度をしていた榮倉が妹との間に交わされた些細な約束事。
「兄さん……」
戦場に向かう兄を見送る妹にとってこの時ほど辛いものはない。自身の手の届かないところに行ってもしかすると帰って来ないかもしれない。それを考えるだけでぞっと寒気がしてくる。
そんなことは想像もしたくなかった。
ただ結の兄はこういう妹の心情には敏感だ。
「安心しろ。絶対に帰ってくるから」
「うん」
「早けりゃクリスマスに間に合うかもしれないけど、どんなに遅くても大晦日には帰ってくるから」
些細な約束かもしれないが家族との大事な約束だった。
待っているのはとてもつらい。
それを分かっているから早めに帰れるようにしたかった。だが、ペトロパブロフスクでの対長門型との艦隊決戦に対『ペトロパブロフスク』との一騎打ち。さらにはドイツ人二人の介入により判明した輸送船の存在と戦艦『大和』との会敵、というさまざまな事件ののちに一カ月という時間はあっという間に過ぎていた。
このときはこれほど事件が重なるとは予想していなかった。
「待っているから。兄さんの帰りをずっとここで待っているからね」
「ああ」
二人を見ていた三人の同居人は互いに肩をすくめる。
「ほら、ブラコンシスコン兄妹。早く準備進めて」
「ブラ」「シス」コンじゃない!」」
伊織は見透かしたように笑う。
「ホントにぃ?」
「違いますよ! 兄さんのことは兄として……」
「兄として?」
「い、言わせないでくださいよ……。それより兄さん! これ、入れ忘れているよ」
そう言っていつも榮倉がしているペンダントを手渡す。
「すまん。助かるよ」
「いいよ」
「やっぱりそうじゃん」
「何がですか……!」
「言わなくても自分がよく分かっているでしょ? ね。菜月ちゃん」
「な、なぜあたしに振るんです?」
「いや、妹と言う難敵を前にして心境を」
「心境って何なんですか。それより伊織さんも準備してください。ほとんど済んでいないですよね? 時間がないんですよ」
げえ、と伊織は時計を見て慌ててトランクに着替えを詰める。
すでに出発時刻は近づいており、時間的な余裕はほとんどない。何より昨日の文化祭の疲れで非常に眠い。
アリシアもうつろな目のまま準備を進めていた。
それから十分ほど時間が経つと出発の準備が整った。
玄関で別れる前に榮倉はもう一度だけ約束した。
「一緒に新年を迎えような」
それに対して結は
「うん」
それだけを返した。




