第二部 「ベーリングロスト」 14
甲板はすでに煤にまみれていた。
黒焦げた金属が海水に濡れて部分的には変形している場所も見受けられた。
榮倉が甲板に上がったことを合図すると接舷していた『桜』が離れていく。
砲弾の降り注ぐ甲板を走り抜け、高角砲の陰に隠れた直後につい数秒前までいた場所に砲弾が直撃する。
「あっぶねえ……」
煤で顔を汚しながら榮倉は高角砲の陰に隠れながら中に入る扉を開いた。
艦内はほとんど防寒対策がされておらずかなり冷え切っていた。
等間隔に示された案内図を見ながら紀伊のいる艦橋へと上がる。砲撃が直撃するたびに艦は激しく振動し、恐怖心を煽ってくる。
紀伊が錯乱するのも納得の状況だった。
榮倉自身も怖さを隠すことはできるわけもなく自然と冷たい汗が背中を伝ってくる。
恐怖心と戦いながら艦橋への最後の扉を開くと外の光が差し込んできた。
「紀伊!」
「……。」
返事はなかったが榮倉に気付いた紀伊はすでに目じりに大量の涙を浮かべていた。今にも泣いてしまいそうな子供のように紀伊は縮みこんでいて、とても戦えるような精神状態ではなかった。
そばに行く。
「大丈夫か……。ってそんなわけないよな」
「うん……。すごく怖かった」
近寄ってきた榮倉の裾を掴むとぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
一人でずっと戦ってきたのだろう。
そんな小さな少女にこれ以上戦わせたくないという気持ちはあった。だが榮倉は心を鬼にしてもう一度頼んだ。
「紀伊。俺がいるから、もう一度だけ戦ってくれ」
「……。でも、あたしは……」
「大丈夫だ。俺が、いる!」
奥歯を噛みしめる。
榮倉大和という男は口ぶりほど強い男ではない。
必死に余裕を見せようとしている必死な男だ。
「あなたは……。なんで」
はやる気持ちを抑えて冷静に言う。
「守りたい奴らがいるんだ。そいつらを守りたい。二度と目の前で失いたくない。それだけだ」
「……。」
誰かを守りたいという感情はいたって普通なことだ。
ただ榮倉は少し歪なことを考えていた。自覚があるかは誰にもわからないが、そうしなければいけない、そうならなければならないという使命感に追われていた。そうして自尊心を保っている
紀伊は子供心ながらそのことを薄々と感じ取った。それはどこかかがみ合わせに自分を見ているようで心を動かされていた。
「……。やれるか?」
「やるよ。あたしは沈まないから……!」
紀伊はそう言って全主砲を轟かせた。
だが、砲弾の精度は十発撃って一発当たれば良い方といった具合で正直『ペトロパブロフスク』とまともにやりあえる状況ではない。
「なんで……。当たらないの……」
一瞬は払しょくできた恐怖心が自らへの苛立ちと一緒ににじみ出ていた。
続けざまに副砲も放つがまともに命中するのは数発だけだ。
状況を見ていた後ろにいる『桜』から桜本人が進言する。
『かんちょう。てったいする?』
『逃がすとでも思っているのかな!』
動きをけん制するような攻撃が襲う。
このままではいずれこちらは押し負ける。
榮倉はいくつかある手段を思いついた。しかしリスクのその分大きくなる。可能性を高くするために必要なのは紀伊がどこまで強い精神を保てるかになる。
「紀伊。これから言う作戦を実行できるか?」
「……。」
無言で紀伊は作戦を聞いた。
しばらく恐怖心が浮き出ていた。
少し考えたのちに迷いながらも頷いた。
「あの、あなたは誰かを守って、どうしたいの……?」
「幸せになってほしい。それだけだ」
「そう、そうなんだ」
「逆に聞くが、紀伊はどうしたいんだ?」
榮倉はもう一度アリサの家で聞いたことを聞く。
少し一緒にいて彼女がどうしたいのか、余計に聞きたくなった。
「あたしは沈んでほしくないだけ……。それだけだよ……」
「本当にそれだけか?」
榮倉はじっと紀伊の目を見る。彼女に答えないという選択肢を持ってほしくない。これは今後の方針にも多大な影響を与える。
「あたしは……。……たい」
「……。」
榮倉は無言のまましっかりと言葉に出すのを待った。
人は言葉にしないと自分の意思を伝えられない生き物だ。もちろん意思疎通にはたくさんの手段があるが、会って間もない人間に言葉を使わずに意思疎通をしろと言われて簡単にできるわけがない。
だから榮倉はその時を待った。
一切の余裕がない戦場ではやる気持ちを抑え込んだ。
「あたしは……」
紀伊は小さな手を強く握り、涙交じりの声で叫んだ。
「戦いたい!!」
「もう守られるだけの船にはなりたくないの! 誰かが沈むところを見たくないから! 本当は強くなりたい!」
少女の思いは思春期によるあるものだった。
他人への劣等感を消化しきれずに溜め込んだ末に自分で考えることをやめる。劣等感への対処の仕方は人それぞれで中には自分には『隠された才能』があると思い込んで自尊心を保ち、中には敷かれたレールを外れてみる。
それは言ってしまえば『中二病』と『非行』に過ぎないが、根底にあるのは誰もが抱く劣等感への対処法だ。
しかし、少女の場合はそれとは違ったやり方で自分を保っていた。
思春期の男女が受け入れ難い弱さを受け入れ、強く在ろうとしている。
榮倉はどこまでも自分に似ていると思った。
紀伊が似ていると思ったように榮倉も同じ思いを持った。
二人が引き合わされるのは朝になれば太陽が昇るのと同じように当然のことだったのだろう。一つ違うことがあるとすれば一人は弱さを隠し、一人は弱さを見せることを選んだことだけだ。その違いが磁石のS極とN極がひかれあうように出会ったのだろう。
だから、榮倉はそんな少女を受け入れることに何も反発はなかった。
「良いだろう!」
榮倉はずっと一人だった紀伊の手を繋ぐと砲撃を敢行し続けるロシア戦艦『ペトロパブロフスク』に対する。
「艦長、あたしを強くして」
「任せろ」
大人らしく余裕のある笑みを浮かべた。
そして、事前に伝えた作戦に移る。
「全速前進!」
この十キロを下回るほどの近距離は『紀伊』には不利だった。一撃で仕留める余裕もない。加えて『ペトロパブロフスク』にとっては恰好の的であり、装填時間も極めて短いことが戦場の優位性を現していた。
その状況を覆すには相手を上回るほどの戦力か作戦が必要になる。しかし、戦力はもうここにいる二隻で打ち止めだ。
だからと言って真っ当な作戦を好き放題にさせるような戦艦でないことは奇襲の仕方で明確だった。紀伊と違い、ペトロパブロフスクはかなり作戦IQが高く、抜け目のない作戦立案を行っている。
しかし、頭のいい相手を打ち負かすのは、それを上回る頭脳か、またはこう数式や確立という数学的な要素を一切考えずにやってくる阿呆であったりする。
目の前で起きた『紀伊』の行動に『桜』からの無線が飛んでくる。
『ちょっと大和くん! 何やっているの! 冷静になってくれないと――!』
「大丈夫だ。俺は至って冷静だ」
『それはそれで大問題な気がするんだけど!』
「桜、今のうちに下がれ、ここは任せろ」
『わかった』
『分かったっていいの』
『かんちょうならだいじょうぶ』
「そういうわけだ。ちょっとばかり無茶するけど菜月には内緒な!」
まだ艦橋に戻っていないだろうと思って言ったが予想外なことが起きる。
『内緒にできるわけないじゃないですか! 聞こえてますよ!』
「……。すまん」
「艦長、あと5秒」
紀伊が冷静に状況を報告する。
榮倉の作戦は全速を出せるかがネックだったがどうやら運が良いことに『紀伊』のエンジン機能には全くと言っていいくらいに影響が出ていなかった。時速に換算して60キロ以上もの速度で進行してくる265メートルの巨艦に額に大粒の冷や汗を流しているのは目の前にいるロシア人も同じだった。
必死に進行を止めようと砲撃するが焦りもあって数秒前のようにうまく当てることができない。
紀伊が錯乱して命中精度が落ちたように《戦人》の精神状態は艦の性能に直結する。
焦れば性能の半分も出せないことは少なくない。
船の左側面をさらした形で全門斉射を敢行し続けていた『ペトロパブロフスク』の進行コースに巨艦が突進していく。
転舵しなくては沈没まっしぐらだが、衝突するつもりは毛頭ない。焦った『ペトロパブロフスク』が至近距離で砲撃を外した直後に『紀伊』は急速に舵を右に転じた。
『そんな子供だましが通じるわけない!』
さすがに真っ当な作戦は読まれる。
急速な転舵によって混乱している隙に相手の背後を突き主砲の向いていない方面からの強襲という模範的な作戦だったが読まれている。
対処法としては同じ方向に転進し続けることだ。
永久的にぐるぐると回り続けることになるがそうなったとすれば『ペトロパブロフスク』には有利だ。今までと変わらない戦況は『紀伊』には不利になる。
しかし、目的はそこにはない。
榮倉は紀伊の小さな手をしっかりと握る。
「行くぞ」
「うん」
刹那、主砲以外の全砲門が火を噴いた。しかしほとんどが的外れな方向に飛んでいくだけで命中したものは指で数えるほどしかない。
『もう少し、うまく撃ってくれないか――』
そこで『ペトロパブロフスク』の言葉が止まった。
転舵を続けていた船の動きがいびつになる。
『まさか!』
相手の声が焦りを覚えたその時に榮倉は叫ぶ。
「取り舵いっぱい!!」
『くっ! させない!!』
慌ただしく撃たれた砲が空気を震わせて轟く。
ほとんどは的外れだった。
しかし、すぐに焦燥感が艦内を襲った。
艦橋に向かって一発の砲弾が飛んでいた。
「もう……」
命中を覚悟したその瞬間に船が傾いた。
氷山に衝突したような重苦しい重低音が響き、艦橋に向かっていた砲弾はわずかに命中コースから外れ海面を叩いた。
「何やっているんだよ!」
金属のたわむ嫌な音が響く方向を見ていた榮倉は子供を叱る親のような形相だった。
音のした方には駆逐艦『桜』が衝突していた。
衝突したことで普通ではありえないような動きをしたことで運よく艦橋への命中を避けた。
しかし、この行動はあまりにも諸刃の剣だ。
運が悪ければその場で双方が沈没することもある。
結果的には多少の金属のたわみだけで済んだのだが、だからと言って文句を言わないということにはならない。
『無茶している人を助けるのは当然ですよ!』
「後で菜月は説教な! 紀伊! いけるだろ!」
「うん」
「落ち着け。俺がいるから。紀伊は絶対に外さない」
ごくりと息をのむ。
急に電池が壊れたように動きが変わった『ペトロパブロフスク』は完全に主砲の向きとは逆の側面をさらしていた。
『最初からスクリューを破壊するつもりだったのか! 君たちは!』
「どうかな」
直後に『紀伊』の51センチもの巨砲がロシア戦艦の腹を穿った。
命中したことに最も驚いているのは紀伊自身だった。
「当たった……」
『……。これが、世界最大の船、というわけか……』
完全に戦う機能を失ったロシア戦艦は動きが完全に停止し、戦闘能力はなくなった。
たった一人の少女は戦いを終えてもなお冷静だった。
沈みゆく船体の中で少女は一人故郷の空を眺める。
船としての機能は失ったが少女の体はまだ動くことができた。しかし、動く気には毛頭ならなかった。
だって。
納得しているから。
勝負というのは時には一発だけで決まる。下位チームが上位チームをジャイアントキリングを目の前にして立った一瞬の油断で勝利を手放すような感覚だった。
30センチちょっとの砲と大した装甲のない船が世界最大の装甲と砲を備えた戦艦を相手に負けたことは至極当然なのだから。
何より、そんな船を年齢的な差があったとはいえ一時は追い詰めた、ただそれだけでペトロパブロフスクは満足だった。
あとは沈みゆく時を待つだけかと思った。
そんな船に一人の男が乗り込んできた。
「勝手に奇麗に締めようとすんなよ。あんたはまだ死ぬには若すぎる」
心臓が飛び出るかと思った。
まさかその声が生で聞ける日が来るとは思っていなかった。
世にいる《戦人》にはそれぞれに考え方があって自由に行動してる。そんな中である船はスポーツ観戦のために生き、中には自分のためだけにすべてを使い潰す者もいる。だとすれば一人の軍人を憧れ、その人のようになりたいと思っている《戦人》もいるかもしれない。崇拝するくらいに好きで声を聴くだけで満足な、ジャニーズファンのような少女がいてもおかしくはないのだ。
そう、今のは遠回しに言ったが率直に言えば榮倉のファンがいてもおかしくない。
というわけだ。
アイドルと思わぬ場所で出会った一般人のような表情でロシア人の少女は。
「Я тебя люблю(好きです). Хочу стать твоей женой(結婚してください)」
Section2 END To the Bering Lost




