第二部 「ベーリングロスト」 12
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《ロシア カムチャツカ地方 ペトロパブロフスク・カムチャツキー》
12月3日
戦艦『紀伊』を名乗る少女は榮倉たちを船があるという山岳地帯に連れてきた。多少は人の往来があった住宅街から少し離れるだけで風の音だけが聞こえる自然へと移り変わる。
海はほとんどが霧に覆われておりほとんど見ることが叶わない。
食事の前までは教えられないと言っていたが心境の変化なのかは分からないが紀伊は榮倉たちが信じていないことを気にしたのかもしれない。
「この先、なのか?」
「……。」
無言で頷く。
榮倉も半信半疑だったが誰よりもミリタリーに詳しい伊織は余計に懐疑的だった。
波打ち際まで行くと小さな内火艇が停泊していた。内火艇に乗り、走ること十分もなかっただろう。霧の中から真っ黒い影が映ってきた。
霧越しにも分かる巨大さはまるで島があるかと錯覚してしまいそうなレベルであり、目の前の影が本当に軍艦なのか信じられなかった。次第に距離が縮まるに従い戦艦『紀伊』のシルエットが明らかになる。
語彙力を失うくらいの大きさだ。
「やばいな……」
「うん……。正直あたしもこれほどとは予想もできなかったよ」
「大きいです」
「300メートル近くはあるのではないでしょうか……」
「全長は265メートルだよ。そんなおっきくないもん」
紀伊は内火艇を巨艦の腹に横付けすると内火艇に用意されていたロープを投げ、甲板部にある取っ手にひっかけた。桜もそうだがこの紀伊と言う少女もそうとう運動神経は良いように見える。
ロープ伝いに甲板に上がると梯子を下ろしてきた。
「上がって」
促されるまま甲板に上がる。
駆逐艦『桜』の甲板は木製の板を張り、その下に装甲板を入れていたがどうやら『紀伊』は全てを鋼鉄の装甲で覆った甲板のようだ。このような甲板は火災が起きにくいという利点がある半面で海水による錆の影響を受けやすいというデメリットがある。
ただデメリットこそはあるが『紀伊』の強さを発揮するには十分だ。
何より木製では艦首に備えられたマンホールの穴を超えるくらいはある口径の主砲から自艦を守る目的もあるのだろう。
「これが51センチ砲……。これ一つでどのくらいの重さなんだろ……」
「艦橋はこっち」
紀伊はすたすたと慣れた足取りで甲板を歩いていく。駆逐艦であれば数秒もあれば着く艦橋も戦艦クラスになると数分歩かないとたどり着かなかった。
ようやくたどり着いた艦橋への入口を開けると艦内とは思えないくらいにしっかりとした作りの廊下が姿を現す。壁にはいたるところに番号が振ってあり迷わないように50メートルほど離れるたびに案内図が貼ってある。
ひとりで歩けば当然のように迷子になるレベルだ。
紀伊は慣れているようで案内図に目もくれずに階段を上がり鋼の鉄扉を開けた。
薄暗かった廊下とは裏腹にあけられた部屋は外の光が差し込んでいて明るい。すぐにここが艦橋だと分かった。
霧でわずかに遮られているが艦橋からはこの265メートルの巨艦の全貌が見えた。第一印象は戦艦『大和』を見ているようだった。しかし、明確に『大和』を上回っている船体と主砲は紛れもない。
「もう、これは本物としか言いようがないね……。これほどの巨艦を作って虚勢を張るためだけなんて馬鹿げているし、そんなものを作る理由もないから」
榮倉は頷く。伊織の言う通りで彼女は紛れもない戦艦『紀伊』の《戦人》だ。
それを認めたうえで紀伊を見る。
「それで、紀伊はこれを見せてどうしてほしかったんだ」
「あたし、あなたに聞かれてずっと考えてた」
榮倉が彼女に聞いた質問のことを言っているのだろう。
「何となくは見えていてけど、あたしは日本に戻って普通の生活が送りたいの。あたし、ここでアリサと一緒に話をするのが好き。ずっとここに居たいと思ったの。でもね。あたしは船だから。いつかアリサに迷惑をかける。でも、日本で普通の人になればアリサにも迷惑がかからなくなる」
「紀伊……。君は船であるということを辞めたいのか?」
「うん。あたしはもう沈んでしまいたい」
彼女が何をこれまで経験したのかはわからないが、この場の全員に悲壮なサッドストーリーは明確に伝わってきた。
「あたしは、沈めないから、沈むところばかり見てきた。みんなあたしを守ろうとして沈んでいったの。もうそんなのは嫌。それをもう見たくないから沈んでもいいから船を辞めたいの」
「それならこのロシアでもできるだろ? なんで日本まで来たいんだよ」
「あなたがいるから」
「俺?」
こくりと頷く。
意図はつかめなかったが紀伊が冗談で言っていないのは明白だ。
「シェリーが言っていたの。あなたに会えば400のようになれるって」
「400って……」
「あれがあたしの理想の一つ。あなたの手足になってもいいからどんなことがあっても、勝手にいなくならない人のためになりたいの。あなたが船を辞めるなといえば辞めない。あたしは普通の生活がしたいだけ」
正直、言葉が浮かばなかった。
彼女は榮倉の手足になってもいいからシオリと同じような生活が送りたいという。シオリは実際、自由で一人の船としてではなく一人の人として生活を送っている。もちろん、世間には《戦人》へ良い感情を持っていないものもいるので一概に良いとは言えないが、紀伊のように憧れる者が現れても不思議なことではない。
榮倉はそんな夢を持った少女を受け入れないはずがなかった。
後ろで話を聞いていた三人の同居人もこのあとの榮倉の放つ言葉は予想できただろう。
「だったら、うちに来いよ。いつでも待っているから」
たった一言が紀伊を揺るがした。
「うん、ありがとう……」
瞳から透明な滴を流しながら頷く。
「あーあ。また大和くんは女の子を泣かせたー」
「まったくです。大和さんは節操がないんですから!」
「私は別に問題ないのですけど……。ないのですが、少し不服ですね」
三者三様のリアクションに困惑しながら榮倉は紀伊に手を差し伸べる。
紀伊は迷うことなくその手を掴んだ。
「とりあえずは一緒に日本に帰ろうか。信号旗はあるか?」
「うん」
見張り台に置いてあると聞いて天井の扉を開いた時だった。
『実に青春っぽい展開だったけど、私は「紀伊」、君をはいそうですかと日本まで返すわけにはいかないんだよ』
カタコトの日本語が艦内スピーカーから漏れてきた。
紀伊は嫌悪的な顔をするとすぐに艦のエンジンに火をつけた。
点火音が艦内に響くと艦橋の後ろの煙突から黒煙が上がる。
「しつこい」
紀伊はそう告げ、艦橋の最上部に備えられた索敵用の電探を動かす。
「紀伊、今の声は何なんだ?」
「ロシアの戦艦。名前は忘れた」
『ペトロパブロフスクだっていったろう。悪いけど今から点火して間に合うかな』
ペトロパブロフスクがそういった直後に電探の探査結果が艦橋のモニターに表示される。
「七キロだと!?」
必中かつ艦砲の大小を問わずに有効ダメージ距離だ。
紀伊も霧にまぎれたペトロパブロフスクに向けて砲を合わせようとするが視界がゼロに近い状況ではそれも叶わない。
条件はペトロパブロフスクも同じだが戦艦『紀伊』はエンジンを点火したばかりでまだスクリューを動かせるだけの熱量がない。
刹那、ペトロパブロフスクの砲が響いた。
弧を描くことなく直線的に飛んできた砲弾は紀伊を捉えることはできずに後方の山岳を穿つ。
相手にも電探があるとはいえ視認できない状況では精度は高くない。せめてもの救いだが、それがいつまで持つかは別問題だ。
「あともう少しで動けるから、待ってて」
「ああ!」
『遅いよ!』
三度の砲撃が『紀伊』の舷側を捉える。
船が激しく揺れ、命中した艦尾舷側から留め具のボルトが弾ける音が響く。
「艦尾の装甲板が欠落した……。あたし、沈むの?」
「沈まない! 戦艦が簡単に沈むわけがないだろ!」
刹那、機関部が唸るように轟き、黒煙を煙突から吐き出した。
数秒後にスクリューが回転を始め、巨大な島は動き始めた。
「伊織! 信号旗の準備は」
「今やっているよ! でも霧から出るまでに間に合う自信はないよ!」
間に合わないとアメリカの二隻の戦艦から敵視される危険性が高い。だからと言って通信回線を開けばペトロパブロフスクに感知される。
「撃つか……。いやダメだ」
榮倉は自分の考えを否定する。
仮に霧の中で戦い、信号旗の準備をさせるという手段に移ることになれば長い時間、ここにいる菜月やアリシア、伊織を危険な状況に置いてしまう。
ここは出来る限り戦闘は避けるべきだ。
榮倉にはアメリカの戦艦を相手にするよりもここにいる少女たちを危険な目に遭わせる方が考えられなかった。
だからと言ってバカ正直に信号旗を出さずに霧を抜けられない。
ペトロパブロフスクの砲撃音はすでに入港している軍に聞こえているはずだ。
霧で隠れることにも次第に限界を迎えることになる。
「榮倉さん! 右前方に岩礁地帯があります!」
「取り舵!」
すぐに艦が左に転換する。急激な方向転換で艦自体が大きく傾く。
「ととっ……。びっくりした」
信号旗を揚げている伊織は危うく転げそうになる。
「伊織さん、大丈夫なんですか」
「大丈夫だよ。それより大和くん、なんで反撃しないの。位置は分かっているじゃない」
「リスクを考えた結果だ。だからできるだけ早くしてくれ」
危険にさらしたくないという本心は隠したが伊織には隠しきれていないように見える。
「……。これだから」
再び砲撃が轟くがこれも海面を叩くだけで命中しない。
「もうすぐ霧を抜けるよ」
「くそ……」
伊織が懸命に旗を上げているが間に合うとは思えない。
次第に霧が薄くなり、雲を突き破る飛行機のように巨大な船は霧を抜けた。
艦橋からの視界を遮っていた霧が消え去り、目の前に現れたのは二隻のアメリカ軍の戦艦だった。しかも全主砲を回転させ、待ち構えていた。伊織の信号旗は間に合わない。
「回線を開く!!」
榮倉が決断した時だった。予想もしない人物が阻止した。
「待ってください!」
菜月がそういった直後。
回線が開くより早く『アイオワ』と『ミズーリ』による一斉射撃が敢行された。
野太い砲撃音が轟き、砲弾は船体に直撃する、と考えたが、いくら待ってもその時は来ない。
「後ろを、狙っているみたい」
紀伊の言うとおりでアメリカ軍の戦艦は『紀伊』に目もくれずに後ろを狙っていた。
合理主義者であり優勢火力を重視するアメリカの判断とは思えない。
「どういう……」
「大丈夫です。船首に味方であることを示す旗を示しておきました」
菜月はそういって艦首の鼻先に掲げてある赤い旗を指差す。
「あの旗にそんな意味合いあったのか」
「いえ。これは私が独断でアメリカ軍に知らせていたものです。もしも見知らぬ船が現れたら船首の赤い旗の有無を見るように言っていたんです」
「いつの間にそんなことやっていたんだよ」
正直、まさかのことで動揺を隠せなかった。
菜月は今まで後手に行動していたのでこういった先を取った行動は初めてだった。
「すみません。今度は大和さんに相談してからにしますね……」
「いや、実際助かったから問題ない。それより」
榮倉は電探の様子を見る。
まだ巨大な船は霧の中にいる。ただ居るには居るがどうやら後退しているように見えた。さすがに三対一の艦隊決戦は分が悪い。
『残念だ。また次の機会を狙うよ』
そう言い残してペトロパブロフスクは霧の中に再び姿を紛らわせた。
しばらくして信号旗が完成し、攻撃されることなく200メートル後半の巨艦は堂々とロシアの港に入港した。
遅れて出ていた駆逐艦『桜』が横に着く。
亜麻色の髪をした少女が心配そうに見張り台から榮倉たちを見ていた。
戦艦『紀伊』の艦橋を降りて甲板に行くと牛若丸のように軽快な動きで見張り台から降りる。
「かんちょう。おかえり」




