第二部 「ベーリングロスト」 5
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《ロシア カムチャツカ地方 ペトロパブロフスク・カムチャツキー》
氷結したチュクチ海での一戦を潜り抜けた戦艦『紀伊』はベーリング海峡を通りロシアの辺境の地ペトロパブロフスク・カムチャツキーと言う街の湾外にある山岳地帯に船を停泊させていた。
甲板には露戦艦との戦闘で負った損傷が残っている。
焼け焦げた煤がいたるところにあり無傷と言える状態ではない。
航行には影響がないが『紀伊』は休息を図っていた。
艦橋にも艦内にも人の姿はなく幽霊船と化した船体は真冬の吹雪に身を隠す。
乗っていた少女はひとり単身でひとつの街に下り雪にまみれたベンチに腰かけていた。近所の公園ではたき火が焚いてあったが雪の影響か遊んでいる子供の姿はどこにもなかった。寂れた街を眺めながら《戦人》の紀伊は数刻前の会話を回想する。
今回の戦闘では戦闘能力に影響が出なかったのは言わずもがなだが運の悪いことに露戦艦の放った砲弾の一発が艦橋後ろの食料庫を撃ち抜いていた。
いくら戦艦に戦闘能力が残っていてもそれを動かすのは食事を食べ、水を飲み、呼吸をする人に過ぎない。水が足りなければ脱水死する。何も食べなければ体は言うことを聞かない。判断能力も乏しくなる。
船が扱える。それ以外に普通の人と《戦人》何も違わない。
ゆえに極寒の中に何時間もいると凍え死んでしまう。
紀伊は後方支援をやっている潜水艦のシェリーに食料の補給を要請していた。ただシェリーが今はイタリアのアドリア海にいるということで直接的な支援ができないということだった。そのため協力者を派遣するという話になり、派遣の条件で補給中は艦から離れることで承諾した。
補給は少なくとも一週間を要する。
それまではこのロシアの地方の街で生きて行かなくてはならない。
公園に来る途中で見つけたメインストリートにある家電量販店の店先に置かれたテレビでは天気予報を放送していた。ロシア語は分からないが天気図の読める紀伊は今の吹雪が少なくとも三日は続くということは分かった。
吹きさらしの公園で吹雪を三日も耐えることはできない。
これからどうするか悩んでいるときに紀伊の方に近づいてくる雪を踏む足音に気付いた。
一瞬身構えたが音の主が自分と変わらないくらいの年の少女と気づいて一息つく。
肩まで伸ばした金髪をした少女は紀伊の前に立つとロシア語で聞いてきた。
「―――――?」
意味は分からなかったが心配しているというニュアンスは感じ取った。
「あの……」
紀伊は数少ないロシア語の知識をかき集めてロシア語を話せないことを伝えようとするがロシア語のレパートリーは対露戦艦との会話で聞いた単語くらいしかない。
日本語でどうしようと呟きながら戸惑っていると少女の方が聞きなれた言語に変えてきた。
「やっぱり日本人なんだ。ごめんね。ロシア語じゃ分からなかったよね」
流ちょうな日本語で少女は笑って見せる。
金髪の少女の話す日本語は取って付けたような露戦艦のようなものではなく発音も文体もしっかりしているものだった。
急な日本語に紀伊は戸惑う。
「あの……。その……。あたし」
「えっとー。じゃあ名前を聞いてもいいかな? 私はアリサ。アリサ・フェフチェンコよ。あなたの名前は?」
「えっと。あたしは……」
紀伊はそのままの名前を言うべきか悩んだ。
それによって態度が急変することもあり得るからだ。
ただシェリーのように気の利いた名前を思いつけない。
「……い。」
「い?」
「……紀伊」
「キイ? キイちゃんでいいのかな?」
「……うん」
これから先の反応が怖くて紀伊は顔を俯ける。
このアリサと言う少女が紀伊の名前が《戦人》と同名であることを知ったら足蹴にすることも考えられた。実際に被害を受けた《戦人》はいないが世間の戦人偏見は見直されることはない。罵声を浴びせられる覚悟もした。
しかし、アリサはもう一度、家族に向けるような暖かい笑みを浮かべた。
「そっか。教えてくれてありがとね。えへへ」
「……。」
「でもどうしたの? こんな日に外に出ていたら怒られるよ。今日は吹雪で子どもは外出禁止でしょ?」
紀伊は必死に言い訳を考える。
「えっと……。ま、迷子……」
「えー!? 家はどっちなの」
あっちと適当に山の方を指差す。
「あっちは海に出る方じゃない。今から戻ると山で遭難するよ」
「……うん」
俯いたまま黙っている紀伊を見たアリサは状況を察したようだ。
「それならしばらくうちにいる? 暖房もあるしここにいるよりはいいでしょ?」
「でも……。いいの?」
「このまま何もしない方が気になるよ。だからお世話させてよね」
紀伊は彼女の厚意に甘えていいのか悩んだ。
アリサに付いて行けば一週間を無事に過ごすことはできる。だが紀伊のことをアリサが気にしなくても周囲の人が《戦人》であることを知ったら一緒に迫害される可能性が残っている。お世話になる以上は必要以上の心配はかけたくない。
そう考えている紀伊を見透かしたようにお姉ちゃんのように優しく微笑む。
「迷惑だなんて考えなくていいんだよ。さっきも言ったけど私が好きでやっているだけだから。迷惑かけてもいいんだよ」
その一言で心が軽くなった。
凍えるよりは断然いいと思える判断だ。迷う必要はない。
「……。あの、ありが、ありがとう」
「Вы радушны для(どういたしまして)」




