第一部 「暁の水平線に」 17
Ⅰ
《フィリピン海 ルソン海峡》
8月6日20時35分
榮倉たちの乗る伊400は初撃を回避し駆逐艦『桜』を誘導しながらバリントン島北部に浮上していた。
常識的に考えれば潜水艦の浮上は自殺行為だ。
ただ練度も経験もない榮倉たちがセオリー通りに動いてもどこかで歯車が狂う。
「すごいわね。ここまでは完璧よ」
「もしもあいつが艦長をしているなら大体は予想できるからな」
「あいつ?」
潜望鏡で外を見ているシオリが首をかしげる。
「アリシア。見えるか?」
潜水艦のハッチを開けて双眼鏡で周囲を確認している。
アリシアは首を縦に振る。
「来ました。五時方向です」
「少しずれているな。まあいい。こっちに見えたってことはあっちだって確認しているはずだ。すぐに始めるぞ」
「りょーかい」
彼女の声をきっかけに停まっていた潜水艦は再び行動を始める。
榮倉たちの動きで駆逐艦『桜』の方も動いた。
暗闇の中で光が瞬いた。
遅れて主砲の発砲音が耳に聞こえてくる。
「アリシア! 砲弾見えるか!」
「無理です。月が完全に雲で隠れていてほとんど見えません」
「どうするのかしら?」
「いい。このままいくぞ。これでも特型潜水艦だろ? 駆逐の砲弾一発で沈むようならさすがに失望するぞ。アリシアは頭引っ込めていろ。あぶねえから」
「ですが……」
「いいから!」
「……。分かりました」
不服そうな顔をしながらハッチを閉じた。
彼女が不服なのも分かる。夜戦はどれだけ目視で敵を確認できるかで成功率が変わる。見張りの重要性は榮倉も分かっていた。
だがそれを差し引いても榮倉には重要なことがあった。
潜望鏡で周囲を確認していたシオリが叫んだ。
「右舷20メートルに着弾。次も来るわよ」
「分かっている。射撃と同時に潜航! アリシア。準備は出来ているな」
榮倉は事前に用意されていた黒いリュックから鉄錆と硝煙臭い鉛の武器を出した。
ずっしりとした重さが体に伝わる。
モデルガンのような偽物では表現できない命の重さを体現したような武器を榮倉とアリシアは握った。
「いいか。可能なら撃つな。分かっていると思うがこいつは人差し指のちょっとした動きで人を殺す。軽はずみに引いていいものじゃないからな」
「はい。覚悟の上です。そもそも私には殺人なんてできませんから」
「ホントにやる気なのかしら? もしもあちらが座礁したらあなたたちはこの広い大海原で帰る方法がなくなってしまうわよ」
「その時はまた考えればいいさ。もしも、なんてことを考えている暇があったら行動する。それが俺のやり方だ。それに無人島だってある。仮に座礁して孤島に置き去りにされたならそこで暮らせばいいさ」
シオリは鼻で笑った。
嘲笑ではなく、呆れたという表情だ。
「そんなつもりないくせによく言うわね。まあいいわ。もしも無事に船に戻ったなら私に連絡しなさい。帰り道くらいは案内してあげる」
ジャキ、という弾丸を込める音が鳴る。
榮倉は頷いた。
「あとは頼んだ」
アリシアと榮倉は偵察用の水上機を打ち出す飛行機格納庫に向かう。
見送るシオリは少し残念そうな目をしていた。
一人残ったシオリは仕切り直すようによし、と声を上げる。
直後に潜水艦は再び潜航を始めた。
タンクに海水を取り込む轟音が艦内を埋め尽くす。
潜航にかかるまでに数発の至近弾を受けたが潜航に影響が出るような損害は出なかった。
最後の至近弾の直後に潜水艦は再び海に姿を隠した。
だがこのまま逃げるためにそうしたわけではない。ここからは艦の性能とリアルラックが成否を左右する。
続けざまに今度は爆発音が艦のほとんど真横で響いた。
駆逐艦の爆雷だということにはすぐに気づいた。
「こんなの満身創痍もいいところだわ」
ただこれも戦時中に使えなかった運を消費しているのかほとんどがかすり傷程度で回避してしまう。彼女が過去に竣工した一九四五年四月にはほとんど戦況は敗北色に彩られていた。そんな中でまともに敵と邂逅することなく終戦の時を迎えた。
それから70年以上の月日が流れまたこの海に戻ってきた。
以前は国のために。今は一人の男のために再び伊号四〇〇型潜水艦『伊400』は再び戦場に姿を現した。
内火艇の位置は事前に聞いてあるのであとは目的地で浮上するだけだ。
満身創痍の状況で彼女は反撃せずにひたすら回避だけを続けた。
十数分の攻防の末に伊400は目的地バリンタン島湾内で停止した。
ここで撃破するとばかりに駆逐艦は追い打ちをかけるように湾内に入る。
「20時58分。あと20分」
再び400は動き出す。
「桜さん。追いかけっこの時間よ。タイムリミットは20分。頑張って頂戴ね!」
直後。タンクから海水を排水するブロー音が聞こえた。
「よし。そろそろ時間だ」
ブロー音を格納庫で聞いた。格納庫には史実では採用されたか不明とされていた水上攻撃機『晴嵐』が格納されていた。ミリタリー好きの人たちが観れば泣いて喜ぶようなほどの無傷の晴嵐の横を榮倉たちは駆ける。
ブロー音はしばらく続いた。
「21時20分。開けるぞ」
軍用の腕時計の時間はそう表示されていた。
アリシアと榮倉は頷きあうと躊躇なくハッチを解放した。
潜航中ならこのまま海水が飛び込んできて溺れ死ぬのがオチだが――
潮風が頬を撫でた。
潜水艦は十数分の潜航の後、三度の浮上を果たしていた。
晴嵐の横にあったのは兵員を輸送するために使うとされている内火艇が一艘用意されている。
ここからは賭けだ。
榮倉たちは内火艇に飛び乗った。
「アリシア。手を握れ!」
「はい……!!」
小さな手をがっしりと掴み内火艇に引き込む。
「出すぞ!!」
貨客船に乗せられている緊急用ボートのように内火艇は榮倉がボタンを押すと海に投げ出された。
大型艦の横はかなり波が乱れている。しかも今日に限って風も強かった。
小さな船は大きく揺らされた。
「くそ! 結構揺れる!」
大きな揺れに何度か海に投げ出される覚悟もした。
ただ腐っても軍用の内火艇だ。簡単には転覆しなかった。
ゴムボートのエンジンのようなスクリューを回して潜水艦から船を遠ざける。
しばらくは船の揺れに圧倒されたが伊400が離れたことにより船は多少安定した。
二人の無事を潜望鏡で確認したシオリは安堵の色を見せた。
「あとはあなたたちの運次第よ。どうかご武運を」




