第一部 「暁の水平線に」 10
Ⅲ
《フィリピン サンタ・アナ パラウィ島》
高谷菜月は一歳年上の数少ない女性乗務員である伊桜伊織と向かい合いながら少し遅い夕食を食べていた。想像以上に航行日数が伸びていたためほとんどが地元で買った食材なのでどうしても和食の味が恋しくなってしまう。
スプーンでちびちびと夕食をつついていた菜月を見て伊織はイタズラの大好きな小悪魔のような表情でほくそ笑んでいた。
「ねえ。菜月ちゃんは恋愛で成功するために女の子が必要なものって何か知ってる?」
意図の読めない質問に菜月は困惑する。
「な、なんでしょう……?」
ずい、と指を一本立てて迫る。
「そりゃ笑顔でしょうが! 基本中の基本ですわよ!」
「あの……。キャラ変わってませんか……?」
「はい、口出し禁止ぃ。というわけで」
というわけ?
よくわからないテンションの伊織は小悪魔状態のまま続ける。
「菜月ちゃんは大和くんがここにきてからほとんど笑ってないでしょうが。ファーストターゲットを仕留めたいなら初動が大事って言ったのに曇天今にもゲリラ豪雨状態だし、重要なこと一個も言えてないぞ」
「……」
返す言葉もなかった。
「もうちょっとポジティブシンキングに考えないとこの先潰れるよ。まじめじゃない話、この煮つけモドキみたいに菜月ちゃんモドキ状態だよ」
「まじめな話じゃないんですか……」
「うん。真面目かどうかはあたしのテンションが決めます。煮つけなら醤油が足りないんだよね。試しに唐辛子でもどうかね? 一応、ここに有名どころの味ぽんがありますが、どちらをお試しになられますかい?」
ほとんど魚を水で似ただけな状態の煮つけモドキの前に一味唐辛子とポン酢が並べられた。ちなみに菜月は辛い物が苦手でカレーは甘口でないと無理だ。
選択肢的にはポン酢一択になるがどう見てもこれは地雷だ。
まだマシにできている煮つけモドキにポン酢を入れるとどんな化学反応が起きるか知れたものではない。
「どちらもいらないという選択肢はありますかね?」
「ない!」
断言された。
「うぅ……」
再び考える。
いくら煮つけモドキが微妙な味だからと言って雲行きの怪しい森に入るほど菜月は愚かではない。ただ水炊きという料理がある。ほとんどが素材の味でできていてそれにポン酢などをかけて食べる。
だとすればこちらは地雷ではなく宝物の可能性もある。
「じゃあ、ポン酢で……」
「そうかいそうかい。じゃあほいさ」
ポン酢の入れ物を差し出す。
「それでさ。恋愛というのはね。菜月ちゃんの笑顔と積極性次第なわけで、どうみても仕事脳で古風頭の大和くんでも振り向いてくれるんだよ」
「……っ!?」
思わず体が反応した菜月は手に持っていたポン酢を煮つけモドキに大量に注ぎ込んでしまう。量を見れば完全にすっぱいとわかってしまう。
「どしたの? そんなに慌てて」
「な、なんでそのことを」
「そのことって大和くんへの菜月ちゃんの好き好きオーラのこと?」
「そ、そうじゃないですけど! そうです!」
自分でも意味の分からない返事だと思いながらポン酢が大量に注がれた煮つけをつつく。
食べられないわけではなさそうなのが救いだ。
食糧不足でもったいないことをしていられない。
「言っていることはよーわからんけど。菜月ちゃんが大和くんに惚れているのは安芸灘で大和くん見つけた時の反応で絶対にわかるよ」
「ほ、惚れるとか言わないでくださいよ!」
「純愛サーキューレーションー。恋愛ならぬってねー」
真面目じゃない伊織ははっきり言って相当面倒な相手だ。しかも小悪魔モードは中でも最強クラスに凶悪だ。もう一人の女の子のド直球よりグッサリ来ることがある。
「はぐらかさないでくださいよ」
「……。真面目な話さ」
伊織は少し黙るといつの間にか小悪魔モードは消え去っていた。
いつものというか真面目な時の伊織の表情だった。
「伊織さん……?」
「菜月ちゃん。あたしはまだあの人を信じられないよ。ずっと見てきたけど不安定でずっと表情も暗いし何か背負い込んで生きていて窮屈そうだよ。あの人は何かあると大きく変化しちゃうタイプだとあたしは思うの」
「それは……」
菜月は返す言葉に迷った。
伊織の言ったことはずっと感じていたことだ。
その一辺がこの数時間でいくつか見えたことも事実で菜月は自分の気持ちを貫けるか不安になったこともあった。
「ごめんね。あたしってずっと人を疑って生きてきたから……。あたしのようなひねくれものの意見は記憶の片隅にでもおいておいてくれればいいよ」
「はい……」
伊織の生き方は菜月にはわからなかった。
菜月はすぐに人を信じて生きてきた。幼稚園の頃には男の子と手をつなぐとその人と結婚しなくちゃいけないということを結局小学生になるまで信じ込んでいた。他にも言った本人が冗談のつもりだったのだろうが信じ込んでいて失敗したこともある。
もちろん失敗ばかりではないが良い思い出は掘り起こせばまだ少ない。
お通夜状態になった二人の空間を引き裂くように新しい女の子の声が聞こえた。
「伊織さん、菜月さん。食器を洗いたいのでそろそろ食べてくれませんか。今日はまだ入浴していないので早くいきたいのですが」
声のした方を振り向くと銀髪の少女が立っていた。
神々しいくらいの美しい少女は儚そうな瞳で早く食べて、と訴えていた。
「やっほーアリスちゃんどこ行っていたの?」
アリスというは銀髪の少女の略称のようなものだ。アリシアという名前を持っているが伊織がぱっと呼びづらいと言ってわかりやすいアリスと呼んでいる。
「周辺の市場で食材と調味料の買い出しです。少し主食のパンが不足しているので機会があったら調達に行っておきたいのですけど」
「そうですか……。今日は遅いですし明日明後日にでも時間を作りますからそのときにお願いできますか?」
「わかりました」
アリシアの印象を聞けば全員が菜月の言うことしか聞かない変わり者というだろう。実際に菜月がやってくれと頼まないと副社長の席に座っている三池の指示すら聞かないほどの問題児だ。
性格も希薄で感情を表に出さないタイプだ。
正直言って菜月の会社にいる女性はほとんど変わり者ばかりだ。
そして、彼女のように思ったことをそのまま口に出す性格は苦手だ。
「菜月さん。榮倉さんが好きなのは分かりますが恋愛だけに夢中になりすぎないでください」
相変わらずのド直球だ。
「……。わかってます」
返す言葉も見つからず年下のアリシアの言うとおりに頷くしかなかった。




