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塩1トン
今までも、もちろん泣きたいような状況はあった。
グルジアに流された。無闇な取引をした。
軽度ではあるけど、左腕の自由を失いもした。
己の無力を、痛いほど実感しもした。
そしてそのたび、手を貸してくれる人はいた。
少なくとも、このゴーリー――山間の、グルジアの片隅では。
“モスクワは涙を信じない”
今一度、その意味を噛み締めてみる。
涙を信じないままに、僕はやって行けるのだろうか。
「――ひとつ、教えてあげるわ」
見かねてか、食卓を離れながら彼女は言う。
あの素振りは外、貯蔵庫目的だろう。
玄関から出て行き、一時的に彼女は姿を消す。
訪れたのは、僕一人きりの食卓。
大皿とスプーンは既に片づけられている。
後にはふたり分の陶器コップと、ガラス製の塩入れ壷が残されている。
――ある相手を解したいなら、塩1トンぶんの食事を分かち合うことだ。
不意に僕は、昔読んだ本の一節を思い出していた。
僕が彼女に拾われて、もうすぐ5年が経つ。
彼女と分け合えた塩は、果たしてどれだけの重さになるのだろう。