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慣行
言い伝えが事実を歪めることも、事実の断片を伝えることもある。
僕が知る限り、流行り病の場合はその両方だった。
いわく、「子供のうち半分が永眠したことがある」。
おそらく、そう言う年もあったことだろう。
いわく、「だが(牛の膿である)種痘を打ったら牛になる」。
これには思わず、「牛を食べたら牛になるのか」と言いかけた。
言い伝え。
今の僕にとってその厄介さは、決して他人事ではない。
いや、他人事ではなかったのだろうし、今このときもそうなのだろう。
体験談、あるいは直接の顔見知りによる話は、それだけの力を持つ。
それを覆すだけの歩みは、ほとんどと言っていいほど成されることはない。
部外者が何を言ったところで、それ以上の、行動を変えるだけの説得力を持たせるのはむずかしい。
それだけの力を持たせるなら、よほど地域にうまく溶け込むか、あるいは同志になるかしかない。
思うに、僕はまた疲れていたのではなかったか。
またしても冷静さを欠いていたのは確かだ。
だが、何に疲れていたというのだろう。
異国の暮らしに? それとも、母ならぬ国の言語に?