さらば師よ
「……分かりました」
まずは同意し、退室の意を伝える。
ただし、すぐに去ることはしない。
わずかな時間ならば許されるはず。
そうすれば、あるいは。
かすかながらに、そう願って。
「宰相には、その気はないのですか」
「何がだね」
「つまり、ロシアを離れる気は……です」
苦しまぎれの問いだった。
こちらに来ないかとの、言外の誘い。
それに乗るような相手ではない、それは分かっている。
「申し出はありがたいが――先程、述べた通りだよ。乗りかかった船だ、中途で降りる気にはなれない」
「それが今にも座礁しかねない船でも、ですか」
「ああ。ともあれ、老いぼれるまで長居した船だ。君には価値を見い出せないであろう、どんな老いぼれ船であろうとね」
己と船を重ねての言い回し。
片方を否定すれば、もう片方も否定せざるを得ない。
ふたつを切り離す方法を、この時の僕は思いつけなかった。
船と人とをつなぐロープは、ついに結ばれたままだ。
「長生きしようじゃないか――お互いに」
「ええ、ええ……そうありたいと、思ってはいます」
互いに本音ではある。
悲しいかな、本音であると言うだけだ。
話は尽きた。
もはや交わることはない。
その事は、痛いほど分かった。
いや、初めから分かっていたはずだ。
そのはずなのに。
どうしたものだろう、なんとも言えず、寂しい。
やがて、その時が来た。
言い出しかねていた言葉が、やっと口をつく。
「……では」
「では――願わくば、また」
老宰相の願いは。
後に、半分だけ叶うことになる。




