先手
「――ひとつ、仮定の話をしてもいいかね」
「答えられることでしたら」
「では。もし仮にだ、私の自伝に不都合が含まれていたなら、君はどうする」
想定はできた。
それへの対策も。
ゆえに、僕は答える。
「その前提が、まず成立しませんね」
「興味深い。今すぐ理由を尋ねても?」
「ええ。僕がそれを読むことは無いからです……公刊される前には、決して」
問題は、事前に知ってからどうするか……では断じてない。
不都合な記述が、果たして存在するかどうか。
あらかじめそう知り得る状況が、そもそも良くないのだから。
では、どうするべきか。
ほかでもない、先に決めてしまえば良い。
僕が一切知らなければ、事前に惑うことはない。
「李下に冠を正さず、疑われる真似はあらかじめ避ける。それが最上と考えます」
「――君の故郷の 諺 か」
「郷里では有名な言い回しです。正確に言うなら、古代中国由来のものですが」
しばしの、石にも似た沈黙。
やがて、老宰相は口を開く。
「――小切手の宛名、どうするかね」
その意を察するには、わずかに時間がかかった。
納得を得たとの、そんな意を。
「ユーリ、ユーリ・アリル-エフ……僕の名前です」
「その名前は、照会に耐える形のものかね」
「恐らくは耐える、そう思います」
「分かった。では、追ってそう書くとしよう」
差し出されたのは右の手。
両手で握り返そうとして、思わず顔をしかめる。
左手は相変わらず少し、ぎこちないままだ。
この事実に僕は、なかなか慣れないでいる。
「……失礼」
右の手を差し出し、そのまま手を合わせた。
老宰相のしわがれた手と、込められた握力。
握りあったまま、無言で顔を合わせる。
決して強くはなくとも、その手は温度を感じさせた。
恐らくは、と僕は思う。
この力加減さえも、一種の交渉術なのだろう。




