可否
「――ひとつ、物を書こうと思っていてね」
「物を……ですか」
「率直に言えば、包み隠さぬ自伝という奴を、だ。君には、その手伝いをしてもらいたい」
言われて、少しだけ思いを巡らせる。
僕と老宰相とは会って間がない。
記憶という点で、助けになれることは限られる。
と言って実務面、口述筆記なら専門職がいるはず。
仮にタイプライターを用いても、数ヶ月かかるだろう。
それだけの期間さらに、つきっきりが可能とも考えにくい。
「手伝えることと言えば、実質何もなさそうですが」
「ふむ。おそらく、君が考えている部分ではないな――書く前でも最中でもない、その後の話だよ」
書き上げたその後。
一体何か、僕に出来るのだろうか。
「その後の話、ですか……」
「つまり、だ。私が書き上げた後、その原稿はどうなる」
「本になるのでしょう」
「率直に書く、と言った」
「……なるほど」
恐らくは、すぐ公刊することはないのだろう。
ならば、その時はいつか。
……いや、と僕は思い直す。
この際、それがいつかは問題ではない。
その時が来るまで、誰がどう保管するか、だ。
何であれ、破棄するために書く者はいないのだから。
「そして君の方が、おそらく長く生きるはずだ――私よりは、ね」
無論、死人が現世を確認する術はないはずだ。
そしてそれは、あくまで前提。
両者ともの了解でしかない。
ならば、と僕は考える。
その前提の上で、果たして何を問われているのか。
「分かりました。もちろん、直接の保管は難しいですが……」
覚悟を。
意志を問うていると、僕は考えた。
百も承知の上で、こちらの意志を。
「任せて下さい」
ゆえに、僕は表した。
簡潔に、今の意志を。
「――よかろう」
老宰相は笑っていた。
心なし、不敵さをたたえた笑みで。
「大きな悩み事が、ひとつだけ消えそうだ」




