出立
「ひとまず、だ。この後、君はどうするかね?」
「おそらく、ペテルブルクへ……便で、帰ろうと思います」
飛行機でと言いかけ、あやうく思いとどまる。
2年前、空を飛ぶ者こそ既に出たものの。
大勢が空を飛び始めるのは、まだ数年は先のことだ。
「いったん、日本へ行く手もありますが」
一度ロシアに戻れば、ふたたび日本へ行くのは難しい。
けれども戦間期のわずかな間なら、決して不可能ではないはずだ。
「……正直なところ、迷いますね。この時代、少々稼いだところで、あちこち行き来できる訳ではありませんから」
アメリカからロシアへの便。
僕が乗った頃の飛行機ならば、せいぜい10万円前後だったはずだ。
安いとは言わない。それでも、一月働けば往復には足りた。
「――ふむ。言われてみれば、報酬の話がまだだったな」
催促のつもりはなかった。
それだけは言っておきたい。
「……そう言えば、そうでした」
「ジョゼファ氏からも、特に書いてはいなかったな」
いかにも、困りものだと言った風に。
少しの間だけ、和やかな空気が流れる。
やがて老宰相は、テーブル上の紙と筆記用具を引き寄せる。
手に取るはもちろん万年筆だ。
そのまま、流暢に文面が記されていく。
「――これでどうだね。よければ、この額を小切手に書くとしよう」
「……ちょっと、多すぎます」
旅行どころではない。
船の一艘は買えそうな額だ。
「決して多すぎはしない、と私は考えるがね」
「……確かに、払わずに済む賠償金と比べれば、些細な額かも知れませんが」
「代わりに、ひとつ頼みたいことがある。私からの、ごく個人的なことだ」
個人的な頼みごと。
その言葉の重さを、しばし噛みしめる。
安易に受けることは、さすがに出来そうもない。
考えた末に、僕は答える。
「ひとまず、伺うだけでも良ければ」




