老宰相
ひと仕事を終え、ホテル内の私室につきそう。
通訳補助の仕事で済ますには、いささか重荷だった。
ともに腰掛け、テーブル越しに向き合う。
いつも通り、そのまま話に入った。
「――ズバトフ主義については?」
そう老宰相は切り出す。
条約を締結し終えて、さすがに疲労の色がにじむ。
それでも、そこに安堵の色は見当たらない。
「名前だけは聞いています」
「官製の労働運動、とだけ把握してくれればいい。ズバトフとはその提唱者、一警吏の名前だよ。もっとも、この個人の名前にさしたる意味はないがね」
「統制目的というのであれば……」
無論、意図は解せる。
けれども、上手くいくとは思えない。
こちらの意を察し、老宰相は頷く。
「なるほど、豪雨も雪解けも、水には違いあるまい。確かに、雪解け水の方が安全に見えよう。しかし――」
「……いずれは川に流れ、濁流を生む」
「ふむ、濁流かね。奔流ではなく」
「言葉の綾です。知っての通り、僕の郷里には大河がありませんからね」
老宰相は僕の出自を知っている。
知っていてなお、存在を認めている。
事実として、ただそこにあること。
ありのままを、ただ見据えること。
それは決して、常人の成し得る領域ではない。
「利根、信濃、石狩。あるいは木曽、長良……どれも川です、大河という程じゃない。幅はせいぜい、あって2露里という所です。それに」
1露里はほとんど、1キロに等しい。
この単位を言うとき、いつもどこか安心する。
感覚を間違える事はおよそ無いのだから。
「濁流も奔流も、脅威には違いありません……あくまで、あなた方にとっては、ですが」
老人の名はウィッテ伯。
セルゲイ・ユリエヴィッチ・ウィッテ。
2ヶ月の後、ロシア帝国初代首相となる者。
「ズバトフも余計なことをした、とまでは言えまい。何にせよ、言い出す者はいたはずだ。名前など所詮は象徴の問題だよ――もっともそのせいで、後々に名を残すだろうが」
時折、思う。
この老宰相に果たして、どこまで見えているのだろう。
あるいは知っているはずの僕より、よほど見えているのではないか。
老人が亡くなるまで、あと10年もない。
世界大戦の行方はもちろん、革命を目撃せずに済むはずだった。




