正気
まぎれもなく、皇帝夫妻は正気だ。
あるいは、まだ正気なのだ。
目前の戦争を放棄しての旅行をしない。
その程度には正気なのだろう。
あるいは。
生まれたばかりの我が子を、見ず知らずだったはずの魔女に任せる。
その程度には正気を失いかけている。
――浮かぶのは、奇妙な感情だ。
褒められたことでもない、けれども責められることでもない。
まったく同時に、そう思えた。
四人目にしての、ようやくの跡取り息子。
その子が持って生まれた奇病。
皇帝と王妃の悲嘆は、いかばかりだったか。
そう、夫妻は仲睦まじかった。
側室や養子との選択肢が浮かばないほどには。
無論、責めることはひどく簡単だろう。
それでも、そうする事はためらわれた。
愚鈍ではない。けれども、傑物ではない。
それは確かに、つまらない事かも知れない。
つまらない事かも知れない、けれども。
いずれにせよ、と僕は思い直す。
目の前のこの赤子が、数々の鍵を握っているのだと。
皇帝一家の運命然り、目の前の遊戯然り。
「――ちょっといいかな?」
「ええ。要件が何かにもよるけれど」
「その揺りかご、少しだけ見ていいかな?」
確信があった。
あの時。彼女が手札を伏せた時だ。
手札をいったん、揺りかご入れた時。
室内である以上、間違っても風は吹かない。
鏡や類する仕掛けもだ。
ならば、わざわざそこに伏せたのなぜか?
「ダメ――と言ったら、どうするの」
その返答は、想定済みではあった。
「力づくで、は避けたい」
「私のほうが強くても?」
「――だろうね。でも」
努めて静かに、僕は言う。
「うっかり怪我をするかも知れない。僕としても、それは避けたい」
血友病。
血液が凝固し辛いこの病気は、何気ない怪我が重症になる。
すり傷は何週間と痛み、打ち身は何ヶ月と治らない。
いま分厚い毛布を敷いているのも、怪我を予防するためだ。
この病に対処できるのは、本来ずっと後のこと。
血液型が発見されてからの、もっと後々のはずだったのだ。
あくまでも。
あくまでも、僕は何も言わなかったならば。




