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進行
一人のドイツ人が墜落した。高度十数メートル。
グライダーの飛行中、突風に煽られてのことだった。
享年48歳。彼の名前は、オットー・リリエンタールと言う。
空飛ぶ者。イカロスの後継者。鳥類に最も近づいた人間。
――まさかこんな結末が。
――研究は何十年と遅れるだろう。
――これは神の域に近づいた罰なのだ。
手にしたゴシップ紙には、そんな事どもが記されていた。
共同研究者であるはずの弟のコメントは、残念ながら見当たらない。
突然目にしたこともあり、どうにも奇妙な感慨を僕は覚える。
この時代、人はまだ自由に空を飛んでいないのだ。
もし仮に、羽とエンジンとによる浮上を“自由”と呼ぶのなら。
大空へ。そう羽ばたきかけていたドイツ人は、もはや世にない。
リリエンタールの仕事は、アメリカの無名の兄妹が継ぐことになるだろう。
今から7年後、わずかに数人が見守る中、羽持つ機械はキティホークの丘を飛んでいくはずだ。
それが空にとって、幸せなことなのかは分からないけれど。