西暦
ロシア帝国、グルジア。
ロシア語専攻の僕にとってその名は、馴染みがあるどころではなかった。
帝国西端にして、黒海に面した地。
東西交流の要所にして必然、しばし戦場とも化した土地。
何より、20世紀ロシアを支配した魔女、ジョセファ・スターリナの出身地。
いや、余計なことを考えてる場合じゃない。
僕が事故に遭ったのは日本だ。となるとここも、日本のはずだ。
けれども。では目の前、女の子が話している言葉は何だろう。
僕の知る限り、留学先でしか耳にしたことがない発音。
帝国とともに版図を広げ、幾多の興亡を経てなお残された共通語。
英語とも日本語とも違うその言葉は、ロシア語でしかあり得なかった。
「グルジア……いや、ありがとう」
「大丈夫みたいね」
混乱しつつ、僕は気付く。
「……ごめん、忘れてた。僕の名前は」
どう答えたものか。少し悩み、学内でのあだ名を口にする。
「……ユーリ、ユーリ・アリルーエフ。きみの名前、聞いていいかな?」
「ジョゼファよ」
片目をつぶり、彼女は言う。
「ジョゼファ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ」
僕の記憶が確かなら。
それはジョゼファ・スターリナの本名だった。
かつて全ロシアを支配した、血塗られた魔女の。
そう、あくまでかつての話だ。
けれどもこのときの僕は、確信にも似た奇妙な手触りを覚えていた。
「たびたびごめん、今は何年かな。いや、西暦の話なんだけど」
「西暦? あ、教会歴のことね。ええっと」
指を折り、数をかぞえ。
「1800……1894年ね」
彼女、ジョセファは言った。