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萌芽
――でも、もしかしたら。
そう思い至ったあの感情は、今となっても上手く記しがたい。
あるいは、僕なら。
……僕なら?
僕ならどうだと言うのだろう。
左腕の力をほとんど失い、航海の途上で壊血病に蝕まれている僕。
挙げ句、提督に素性の一端を見抜かれる、間抜けな僕。
待ち受けるであろう惨劇を止めるに、必要なものは何か。
戦争を止め収容所を止め、虐殺を止めるに足る身分。
いや、身分と言っていいのかどうか。
力。
力だ。
そんな力など、今の僕にあろうはずがない。
――ならば。
ならば話は簡単だ。
何者かに成ればいいだけだ。
浮かんだその先を、僕は打ち消しかねていた。
その何者かがいかなる存在か。
想像は、あまりにも簡単過ぎて。
僕は不意に、元いた世界のことを思い出していた。
全ロシアを支配していた、血まみれた女帝のことを。
左腕に、少しだけ力がこもる。
女帝の亡霊に、わずかながら触れる思いがして。




