私物
バルチック艦隊を率いる、提督の私室。
「――失礼します」
僕は部屋へ入り、後手にドアを閉める。
ひどく簡素な部屋。
物がほとんど無い、と言うのが、ひと目見ての感想だった。
窮屈ギリギリの寝床に、角を丸めた小さな木の机。
机は椅子ともども、床に固定されている。
机の上には万年筆と書類が置かれているだけ。
いつでも夜逃げできる程度には、荷物が盛り沢山だった。
万が一の大波のことを考えると、艦内ではこうするのが合理的なのだろう。
「ペーパーナイフは引き出しのなかだ、すぐ出そう」
僕には、手元に置きたい私物が山ほどあった。
けれど、一乗員の身で私室がある訳でもなければ、信用できるほどの伝手があるでもない。
と言って一線を引いて置くためには、提督に頼む訳にもいかない。
結果、手持ちは無沙汰なままだ。
制服とわずかなメモ帳。今の僕の持ち物は、その程度でしかない。
何か余裕が生まれれば、それを使いたくなるのが人間というもの。
けれども提督のこの部屋は、その辺りが違うと思わされる。
海という不合理に対し、私情を挟まないとの意志。
それが、部屋の隅々からも察せられた。
なるほど、伊達に艦隊を率いてはいないのだろう。
たとえそれが貧乏くじの類――新旧入り交じる、急造部隊の頭であったとしても。
今の僕は、プライバシーなどおよそ無い、船の一乗組員でしかない。
ただ窮屈な分だけ、給与はそこそこあるのだけど。
「これだな」
柄のほうから差し出された薄く鈍い刃物を、僕は若干大げさに、恭しく受け取る。
自由の利く、右のほうの手で。
「ありがとうございます」
「――で、どうするね。開けるのはいいとして、読むのは? 無論、少しの間ならここを貸しても構わないが」
船の上での、一時的なプライバシー。
破格と言っていい申し出だった。
「いえ、それには及びません」
破格なだけに、おいそれとは受け取れない。




