第1話 椅子に縛られ異世界へ
どこまでも広がる草原。どこまでも広がる青空。
なんとのどかで心が落ち着く光景なのだろう。寝転んだら気持ちいいだろうな。
って、穏やかな気持ちになってる場合じゃないぞ、俺!
え? ここどこ? 俺は佐藤ユウシ。
ボケてる場合じゃなかった。マジでここはどこだ。
場所もおかしいが、昼間というのもおかしい。
何がどうなっているんだ。くそ。
「おい、ピエロ! どこかにいるんだろ? 出てこい!」
この状況の原因は間違いなくあのピエロだ。どんなトリックを使ったかわからないが、とっととカラオケボックスに戻してもらいたい。延長料金大丈夫だろうかと、少しだけ不安になっている。
だが、ピエロの返事は返ってこない。近くに隠れられる岩や木はない。あの一瞬でどうやって消えたのか。
『ぐおおおおおっ!』
「ーーっ!!!」
突如、どこからか獣の吠える声が聞こえてくる。
声の主を探して首を動かす。首をギリギリまで後ろに向けると、何かがこちらに向かっているのがわかった。
何かまでは見えないけど、このままではまずいのは確かだ。
逃げようとしたが、椅子に縛られて動けない。
地面が揺れて後ろの何かが近づいているのがわかる。徐々に大きくなるということは、近づいているということだよな。
暴れて紐をほどこうとするが、きつくてどうやっても無理そうだ。
暴れる間にも地面の揺れは大きくなり、お尻が痺れるほどだ。
『ぐうううう』
揺れがふと収まったかと思えば、うなり声がすぐ上から聞こえてくる。
恐る恐る上を向くと、まず白くて尖ったものがたくさん目に入る。
岩かと思ったが違う。牙だ。大量のよだれがなにもできない俺に落ちてくる。
「お、おいおいおい! なんだよ、こいつ! くそ! ほどけろよ!」
牙は、というか何かの口か。どんどん近づいてくる。すごく臭いけど、そんなこと気にしている場合じゃない。
「ふざけるな! こんなワケわかんない場所で死ねるかよ!」
紐はどうやってもほどけそうにない。ならこのまま移動するしかない。
わずかに動く左足に力をこめて右側に倒れる。
俺の予定では倒れて転がって避難しようとしのだが、倒れた拍子に椅子が壊れて紐が緩む。
すぐに手だけだし、そこから這いつくばるように脱出する。
必死にもがいてから背後を向くと、巨大な何かが俺を見ていた。
トラ、だろうか。見た目はまさにトラだが、大きさは見上げるほどである。トラックみたいな迫力だ。
体の色が鮮やかな緑ということも含め、不気味なトラだ。
「はぁ、はあ、はぁ」
なんとか立ち上がった俺であるが、あり得ない生物を前にして緊張からか胸が苦しくなってくる。
くそ。気持ち悪い。高校入試の時の緊張がかわいく思えてくる。
『ぐあああああ!!!!』
トラは吠えると、大きな口を開けて俺に向かって来る。
逃げなければ! 逃げなきゃ食われる!
頭では理解しているのに、足が動かない。くそ。動けよ!
トラの口が俺の目の前まで迫る。あと少しであの牙に俺の体はミンチにされてしまう。
ふっとトラの動きがゆっくりになる。一瞬なにか理解できなかったが、走馬灯という言葉を思い出す。
死の直前になると見えるというあれだ。脳の活動が活発になって、これまでの人生が脳裏を駆け巡るんだっけ。
つまり、俺は死ぬのか。嫌だ! 死にたくない!
『なら、力を貸してあげます』
「ーーっ! だ、誰だ! ピエロか?」
死の恐怖に怯えていると、どこからか声が聞こえてきた。ピエロかと思ったが、女性の声だから違うだろう。
『力を求めてください。生きたいと、目の前の敵を倒したいと願ってください。
そうすれば何をしたらいいかわかるはずです。急いで』
女性は俺の質問に答えず、何やら変なことを要求してきた。
でも、不思議だ。彼女を信じれば助かる気がする。
どうせこのまま何もしなければ死ぬだろう。
だったら、死ぬ気で信じてみよう。
言われた通り、俺はトラを見据えて倒したいと願う。生きるために、倒したい。
胸の辺り熱くなり、そこから広がるように身体中が熱くなる。
その熱さが、体の外に出たいと言ってる気がする。
ああ、そのためにこの言葉が必要なのか。
「力を、我が身に宿せ。竜人化!」
その言葉を口にした瞬間、俺の中の何かが溢れた気がした。
状況がよくわからないけど、とっさに出した右手に生温かい感触が伝わっていた。
見ると俺の右手がトラの鼻先を掴み、動きを止めているようだ。
まるで他人事のようだが、俺が俺じゃないみたいだ。なんだろう。今なら誰にも負けない気がする。
試しに俺は空いている左手を固く握り、トラのアゴを狙って下から殴りあげる。
『ぐお!』
短い声と共に、トラの体が後ろに宙返りする。
いや、まあ、確かに全力だったけど、さすがにトラックほどの巨体が宙返りすると予想できるわけない。
何が起きてるかさっぱり分からない。わかるのは、俺の体に何かしら異変が起きたということだけか。
ひとまず、仰向けで倒れているトラは、今の一撃で気絶でもしたのか動く気配はない。
「た、助かった、のか?」
そう理解した瞬間、安堵で身体中から力が抜ける。
生きてるって、なんとすばらしいことなのだろう。
それにしても、このトラはいったいなんだろう。突然変異で生まれた。なんて一言で片付けていいものではないだろう。これだけ大きく、緑色のトラが居たらニュースになってるはずだ。
そして、俺を助けてくれた謎の声に、俺の力。疑問が次から次へと浮かんできて、頭の中が整理できない。
困ったときは、とりあえず連絡か。さっきのピエロについて警察に相談を、そ、相談を。
あれえ? ポケットがないぞ。おかしいな。スマホはズボンの右ポケットに入れてるはずなのに、そもそもポケットがない。
見下ろして確認すると、俺はズボンどころかパンツすら履いていなかった。
これじゃあただの変態だが、俺の大事な息子の姿はなかった。去勢手術してないです。
そこに人間の体はなかった。赤くガッチリとして、爬虫類の皮みたいな両足があった。
足だけじゃない、腕も同じ質感で、お尻を見ると尻尾が生えていた。
よし、ここはこの名台詞を言う場面だろう。
「なんじゃこりゃあああああああ!」
俺の声は草原に虚しく響くだけであった。
それからひとしきり叫び、地面を殴ったりと暴れたらなんかスッキリした。
さて、ひとまず状況整理だ。出来事を簡潔にまとめよう。
俺はカラオケをしていた。ピエロに捕まった。いつの間にかここにいた。トラに襲われた。トラを倒した。俺の体が変になっていた。暴れた。おしまい。
うん。どうしよう。ひとまず人を探すべきか。とはいえ、こんな体になっていたら、人に会っても確実に逃げられる。
待てよ。人と言えば、さっき俺を助けてくれた人がいたはずだ。その人が言った通りにしたらこの姿になったわけだし。
「さっき助けてくれた人、近くにいますか?」
暴れまくった姿に引いて逃げてしまっただろうか。いやいや、それは無責任ってものだよな。
今この状況を打開できるのはピエロかあの声の主だ。
だが見回しても声の主どころか俺とトラ以外いない。
どうしたものだろうか。
『なんとかなったようですね。私の力を返してもらいますね』
「え?」
突然あの女性の声が聞こえたと思ったら、すっと俺の体から何かが抜けるような感覚に襲われる。
すると俺の体は元に戻っていた。愛しい愛しい俺の体である。息子もきちんとある。
『それでは質問をします。まず、あなたは何者ですか?』
「え? えっと、俺はーー」
『すみません。あなたの言語はわかりません。回答は頭の中に思い浮かべてください』
言語がわからないとはどういうことだ。それに声は近くでするのに姿は見えない。
(え、えっと、俺の名前は佐藤ユウシといいます。これでいいんですか?)
『ええ。それでわかります。私の名前はスロティアです。ユウシ、あなたは何者ですか?
いつの間にか私と契約をしていて、いきなり死にそうだったので力を貸しましたが』
声の主はスロティアと言うらしいが、どこの国の名前だろうか。
(あの、俺にも何が起きてるのか理解できてなくて。
ピエロにいきなりここにつれてこられて、あのトラに襲われて)
『そうですか。状況を把握するために一度会いましょう。
ユウシはレイトアオキという、東にある街に向かってください。
命の危険が迫ったら先程のように私の力を貸します』
(あ、あの、まだ聞きたいことが山ほどーー)
『ごめんなさい。私の魔力がもう尽きるので、続きは会ってからで』
俺の言葉を遮って、スロティアさんはその言葉を最後に会話ができなくなった。
とりあえず目標は決まった。東にあるレイトアオキとかいう街にいけばいいらしい。
さて、ここで問題がひとつ。
東って、どっちだろう。