死者を呼ぶ海
生き物は死んだら海に還るんだって、祖母が言ってた。海にたくさんの生き物の死体が還っていって、しばらくプカプカと海面を浮かんだ後、深海へと沈んでいく。その死体が徐々に腐敗していき、強烈な腐敗臭が海面に浮上し、空中へと湧き出てくる。だから海は臭い。潮風に乗って、腐敗した肉の匂いが海岸の村へと漂ってくる。臭い潮風。臭くて、汚い潮風。
僕の死んだ母も、海へと還っていった。僕は母の死体が、海へと去っていくその瞬間を見た。八歳の時だった。海に浮かぶ母の手足は海月の足みたいにだらしなくぶらんと垂れ下がったり、波に押し上げられてプカンと海面に浮かべたりを何回も繰り返していた。幼かった僕は泣きながら母の後を追いかけたけれど、祖母に引き留められて波打ち際より奥へ向かうことは出来なかった。母の身体は海面に浮いたまま、波に押されてくるりと一回転した。こちらに足を向けて浮かんでいた母の身体は、顔の方を僕のいる波打ち際へと向けた。母の顔は唇が紫色で、白く剥いた目は空虚だった。その目はなにも見ておらず、母の魂が少し前までそこに宿っていたことを少しも感じさせなかった。
僕は玄関の上がり框に横たわりながらその時のことを鮮明に思い出す。母はそこで死んでいたのだった。病気だった。僕はその日、祖母と一緒に母のために山に薬草を取りに行っていた。家にたどり着いた時、すぐに倒れた母が目に入った。僕は母の体に縋りついてわんわん泣いた。
その夜、祖母は僕をなだめた後、母の体を綺麗に横たえて、その上に布をかけて言った。「お母ちゃんはこのままここに寝かしといてあげようね。海の精霊がお母ちゃんを迎えにくるからね」
夜中になっても僕は寝付くことが出来なかった。母の遺体が置いてある上がり框の方がどうしても気になって、時々顔を持ち上げてはそちらの方をちらちらと見た。それを何度目か繰り返した時、母の身体が胸の辺りからゆっくりと膨らんでいるのが見えた。いや、膨らんでいるのではなく、持ち上がっていた。死んでいるはずの母の体がのけぞっていた。母の身体は仰向けでのけぞった状態のまま、手足を動かして進み始めた。まるで蜘蛛みたいな、なにかに操られているかのような動き方だった。母は上がり框を降り、開け放したままの扉から外へ出て、海の方へと向かっていった。
あれから十年、今でも僕はその時のことが脳裏に焼き付いて離れない。祖母も三年前に死に、母と同じように海に還った。僕はいつまでも上がり框に横たわったまま、自分が死ぬ時のことを想像する。僕もあんな風に海へと還っていくのだろうか。
そういえば昔、母に聞いたことがある。僕の父は海に住む魔物なのだそうだ。だから生まれてからずっと僕のそばにはいない。でも母はこう言っていた。父は今でも海にいる。だから、死んで海に入ったら父に会えるのだ、と。
僕は想像する。死んだ僕が海へ沈むと、死んだ母と父がいる、その光景を。