ICHI:2016 ~これから始まるstory~
「あれってさ、生徒会長さんだよね」
電柱に隠れて覗き見なんて、古典的だなと、一は思った。
「相手の人は誰かな。……ねぇ、いっちゃん。聞いてる?」
「聞いてるよ。なんか嫌な雰囲気だな」
「どこがよ。あれってさぁ、告白してるんじゃないの?」
唇の動きを読もうとしているらしい。睦月は目をこらしているようだった。そんなことしても、読唇術ができるわけでもないだろうに。なんと無駄なことをしているのだ。
「あ、家に入っていった」
「あんなやつ知らないよ」
ワンテンポ遅く、一は言った。それが、最初の問いに答えているのだということに、しばらくしてから気付いたらしい睦月は、「まぁ、そうだよね。あたしも知らない」と言って、一を見る。
「もうすぐ三年生も卒業だね」
一は、倒れた自転車を起こしているところだった。睦月が急に隠れるように言ったから、ストッパーがしっかりとかかっていなかった。ハンドルが五度くらい曲がっていると、文句を呟いた。
「どこに行くの、いっちゃん?」
「帰るよ。ドラマ観たいし」
「まだ五時だよ、早いよ」
「疲れたからひと眠りするんだよ」
「今日は手伝ってくれないの?」
「また今度」
睦月はゆっくり遠ざかる背中に「あたしも一緒に帰る」と呼びかけたけれど、一はとうとう振り返らなかった。
進藤一は、幼馴染の田村睦月と共に去年の春、同じ高校へ進学した。
さしたる部活動に入ることもなく、それなりの成績を維持しつつ、放課後には少し寄り道をしたりして、平凡な生活を繰り返すだけの高校生だった。
野球を初めてみたかったが、県内屈指の強豪らしい野球部についていけるはずがないと、挑戦する前から匙を投げてしまっていた。
睦月は漫画部に入りたかったらしい。五つ上のお姉さんが所属していたとのことだ。けれども、一たちの年には、部自体がなくなってしまっていた。だから、睦月は帰宅部になって、自宅でペンを握っている。一は「どうせ暇なんだから」と、トーン貼りを手伝わされることもあった。
なにかの賞の締切だと言っていた。きっと今日も手伝ってほしかったろう。
けれども、今日だけは彼女の家に行く気にはなれなかった。
一は、学生服を無造作に机へ投げ置くと、ベッドに突っ伏すように倒れ込む。ああは言ったけれども、眠いわけではない。むしろ、目が冴えているくらいだ。
「あれって、OKってことだよな……」
表情が物語っていた。
どちらが告白したのかは、途中から覗き見た一たちには、ようとして知れない。けれども、あれは拒否している顔ではなかった。
「別にいいけどね。話しかけたことすらなかったし」
いずれ三年生はいなくなる。生徒会室の前で何度か通り過ぎただけの、一年生のことなんて、まるで記憶に残さず去っていく。どう見られていたのかも、きっとただの一度すら考えることなく。
「なんだろう、あいつ。あの人と付き合うのかな」
きっと自分なんかよりも、彼女のことをよく知っている人なのだろう。当然だろう、そうでなければ、告白などするはずがない。
「別に。ちょっと可愛いなって思ってたくらいだし」
けれども、瞼を閉じれば浮かんでくる。
「思い出した。あいつだ」
さっき見た顔と、記憶の中にいる人物とが一致した。何度か通り過ぎたときに、いつも彼女と話をしていた男だ。部活の申請を通そうと躍起になっていた男だった。
そこではたと、一は思い至る。
そうか、そういう手があったのか。うまいことやりやがって!
理由なく生徒会室に足を運ぶなんてことは出来ない。だから一は、どうやっても、話しかける隙などなかった。実際問題、機会があっても話しかけることなど出来なかったかもしれないが──
一は思い立ち、携帯電話を手に取った。
「でも驚いた! 漫画部を復活させようなんて!」
睦月は興奮したように言った。一は胸が少しチクリとした。
「部員って、二人だけでもいいんだっけ」
「誰か誘えばいいよ。ぐうたらできる部室が手に入るって言やぁ、誰か捕まるさ」
「やる気ない人誘ってどうするの!」
一は取り合わず、用紙にささっと記入する。手遅れってことはないはずだ。
「あっ、熊野先生。いつもスタイルいいなぁ、カッコイイ」
颯爽と通り過ぎる先生を見て、睦月は「顧問はどうするの?」と聞いてきた。
「じゃあ、熊野先生に頼んでこいよ」
「あの先生、野球部の顧問でしょ。兼任なんて無理だよ」
「とりあえず申請だけしたら、空いている先生が付き合ってくれるんじゃないか?」
「自分たちで探さなくてもいいの?」
「さあ……」
創部なんてしたことないから、わかるはずがない。でも、やってみればなんとかなるだろう。それに、それが目的じゃない。
「部室もらったら、部費でポット買って、コーヒー飲みながらやりたい」
「できたぞ。生徒会室に行こう」
「うん!」
夢を膨らませる睦月には悪いと思いながら、願わくば、すぐに承認されないようにと思いながら、一はドアをノックした。
──目当ての彼女は、もういなかった。
手遅れはある。後悔先に立たずという言葉もあるくらいだ。
彼女が何組の人なのかもわからない。生徒会室の前でしか会えたことはなかったのだ。仮に、何組かわかったところで、話しかけようとする勇気なんて持ち合わせていないが。
一が煎餅をかじっていると、睦月がコーヒーを煎れてくれた。
意外にも部員はまともな人間が集まった。もともと睦月とは交流があったらしく、すでに打ち解けてストーリーや構図などについて議論を交わしている。
「せっかくだから、いっちゃんも描けるようになろうよ。部長なんだし」
「いいよ。全体の指揮をとるのが部長の仕事だから」
「よくないよ。描いた漫画を面白いって言って読んでくれる人がいるの、楽しいよ?」
「絵は下手だし」
「じゃあ、どうして漫画部作ったの」
「おまえのためだよ」
「えっ──」
「うそ。おれ一人でおまえの手伝いするのも大変だったからな。おれのためだよ」
本当は漫画なんてまるで関係ない、不純な動機だったのだ。
「描き方、教えてあげよっか」
「いいって」
居心地が悪くなってきたので、一は退散することにした。きっともう、ここに来ることはないだろう。
「いっちゃん!」
廊下に睦月の声がむなしく響く。窓から見上げると、空はどんよりと曇っていた。
「やい、進藤。田村が困っていたぞ、部長らしくないってな」
翌日、一は知らない男子生徒から声をかけられた。授業が終わって、帰り支度を始めたときだった。
眼鏡をかけていて、几帳面そうに前髪をきっちり真ん中から分けている。ぶつぶつのニキビがやけに目立つ。
「誰だっけ?」
「二組の木村だよ。いや昨日、部室にいたから」
「勝手に他のクラスに入ってくるなよ」
そういや、そんなやついたな。一は思い出した。
睦月の友達枠ではなくて、飛び入りで入部したやつだ。何かの賞で一次審査は通ったんだけどと、熱弁していたような気がする。
「田村のこと、困らせるなよな。だいたい、漫画も描けないのに部長なんておかしいだろ。おれたちは冗談でやってるんじゃないんだよね。未来の漫画家を目指して頑張ってるんだ。そこへ、コーヒーだけ飲みにくる人がいるのは迷惑というか」
「それがどうした」
睨み付けると、木村はうっと詰まったように、一歩だけ退き、意を決したように言った。
「単刀直入に言う。おれに部長を譲ってくれよ」
「前置き長かったじゃないか。全然、単刀直入じゃないぞ」
「うるさいな。それでどうなんだよ、譲るのか譲らないのか」
真っ直ぐ見つめてくる木村から、一は目を逸らして背を向けた。
「そんなのおまえたちで勝手に決めてろよ」
数学と英語の教科書は、また明日あるから机に入れたままにしておこう。さっさと片付けを済ますと、一は木村を放って教室を出る。
「それ、了承ってことでいいんだよなぁ!」
廊下で、やつの声が反響した。
目指せ甲子園。
いつから剥がし忘れたのか、アーケードのアーチに貼ってある古ぼけた応援幕を見上げる。くぐり抜けようとしたところで、呼ぶ声に振り返ると、息を切らしながら睦月が自転車をこいでやってきた。
「おまえ、部活はどうしたんだよ」
肩を揺らす睦月に代わって、自転車を支えてやる。ようやく呼吸を整えた彼女は、「一緒に部活しようよ」と言った。
一は、精肉店のショーケースに目をやって「今晩はコロッケかすき焼きがいいな」と、どうでもいいような返事をした。
「みんなで漫画描くの。いっちゃん、友達少ないでしょ。これを機会にさ」
「どうせ、いつかはバラバラになる」
「そうだけど」
どちらとなく、自転車を押しながら歩き始める。いつもはこちらが黙っていてもしゃべり続ける睦月が、珍しく静かなので、仕方なく一は「なんとか賞には入選できそうなのか?」と話題を振ってやった。
「生徒会長さんのことが好きだったの?」
全然関係ない質問が返ってきて、
「別に」
一は素っ気なく言った。
そう、別に、だ。ろくに話したこともない相手を好きだなんて、ばかげている。ただ、なんとなく気になっていただけだ。年上の女性へのちょっとした憧れだ。
「ドラマの続きが気になるし、行かないよ」
「また、ひと眠り?」
「そう」
「ドラマ始まるまで?」
「ああ、眠かったら集中して観れないだろ」
「目覚ましかけても起きないくせに」
そうして睦月はぽつりと呟いた。
「寂しいよ。高校三年間くらいは一緒にいようよ」
「おい、なにかが冬眠してるぞ」
一は、部室に入るなり、目撃したものについて感想を述べた。
「冬眠って言ってる時点で、熊野先生だってわかってるよね」
細顔の眼鏡女子がつっこんだ。そういえば、一と睦月以外はみんな眼鏡をかけている。三つ編みのおさげ髪で、いかにもBLとかが好きそうだなと、一は偏見を口にした。彼女は「好きですけど、なにか?」と憮然とした態度で言った。
「どこからあんなソファを調達してきたんだよ?」
呆れながら、突っ伏して眠る熊野先生を眺める。
「──うるさい」
くぐもった声がした。
「子供が夜に泣き出して、眠れなかったんだって。怖い夢を見たんだろうって」
睦月が耳打ちしてきた。
「今日から田村が部長だから。そしておれが副部長」
昨日、因縁をつけてきた鈴木だか佐藤だかが言った。「進藤は平部員な」
「コーヒー飲んだら帰るよ」
一が椅子にどかっと腰かけて、煎餅に手を伸ばすと、それを睦月がぴしゃりとやった。
「山田ちゃんにいただきますって言ってから」
おさげ女子を見ると「いいよいいよ、食べて」と彼女ははにかんだ。
思っていたより悪くない。
「いっちゃん、ベタを塗るの手伝って」
目の前に原稿が差し出される。
「失敗したら、全部描き直してもらうからね」
おさげ女子が挑発するような笑みを向けてきた。
「仕方ないな。トーンも貼ってやろうか」
「割と慣れた手つきだね」
「へぇ、意外と使えそうなアシスタントだな」
たぶん鈴木も覗き込む。
「熊野先生がここの顧問になったんだっけ?」
「手を動かして、動かして。締切近いんだから」
「ううん。雑魚寝部が出来なかった代わりに、いい部が出来たって言ってたけど、顧問は成瀬先生だよ」
「そうそう、なせば成瀬」
「あの固そうな先生がよく引き受けてくれたな」
古文の成瀬先生は、「成せばなる」が口癖なので、なせば成瀬と生徒たちから陰で呼ばれていた。
「引き受ける代わりに、なにがなんでも結果を残してみせろって。やる気がある生徒には味方してやる、成せばなるから頑張れって言ってた」
「それくらいの情熱で、早く結婚相手を見つければいいのにね」
どっと笑いが起きた。
「うるさい」
熊野先生が不機嫌そうな顔で、睨んでいた。
「大人にも色々事情があるんだ。そっとしておいてやれ」
そう言って、先生は部室を出ていく。「やっぱり雑魚寝部が──」、呟く声が微かに聞こえた。
「さっ、部活を開始しよ!」
部長らしく睦月が手を叩く。
「煎餅食べた分は働いていってね」
おさげ女子がしれっと言った。きっと鈴木が「コーヒーの分もな」と便乗する。
「コーヒーに煎餅なんて組み合わせでやってられるか」
「文句言うなら食べなくていいけど」
取り上げられそうになったので、一は慌てて煎餅の袋を手元に引き寄せる。その様子を見て、おさげ女子と鈴木が笑った。
「明日はなにでいっちゃんを釣ろうか?」
睦月も笑った。
うん。悪くない。
一もつられて笑った。
〜変な部活を作ろうと、毎日生徒会にやってくる人がいます〜に便乗しました。コロンシリーズはそうやって便乗してもいいらしいです。普段はファンタジーしか書いてないので、新鮮な気持ちで書きましたよっと。