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Stand Alone Stories

急がなくても大丈夫

 教室の配置と授業時間割――もっとも大学生の時間割は自分で作るものだが――は、あらゆる意味において生徒の遅刻を誘発せんがための悪意に満ちている。

 そう、自分で選んだ授業ではあるが、見方を変えれば選ばされている。この道を選んだ時点から、この授業選択以外の選択肢は極めて少ないと言えるからだ。しかしそれも偶然なのだろう。悪意があると、思い込まされているだけなのだ。

 別に遅刻が悪い事だとは思っていない。

 思っていないが、遅刻者は目立つ。今となっては気にするまでも無いことだが、気になるものは気になるのだから仕方が無い。

 思えば懐かしい話だが、授業の際に教室を移動せねばならなくなったのはいつごろか。

 確か小学生の時の授業は全部、教室で行っていた気がする。

 ――いや、そうでも無かったのか? 覚えていない。

 少なくとも、そうだ。美術室と音楽室は教室が違ったのではなかったか。あれは教室ではできない。

 無遅刻無欠席を標榜していた自分は、六年間過ごした小学校を去り中学校に上った時、要らぬ心配をしていたのを思い出した。

 教室の場所が解らなくて迷ってしまったらどうしよう。

 その所為で遅刻してしまったらどうしよう。

 迷って遅刻したなどと言う言い訳が通るだろうか。

 それとも、トイレに行っていたから遅れたと偽証しようか。

 いや、駄目だ。そんな嘘を吐いてはいけない。

 無駄だ。それら心配事の全てが無駄だ。

 そんな心配はする必要が無い。そもそも、小中一貫や中高一貫だのといった制度下ではあまり関係ない様な話でも有る。

 しかし、僕の場合は必要だった。

 なぜなら経験していないからだ。

 遅刻した事も欠席した事も無い。

 つまり、遅刻した時、欠席した時、どう謝ったら許してもらえるのかが解らないのである。

 馬鹿げた話かもしれないが、小学校六年間、いや中学も含めた九年間を向遅刻無欠席で過ごした者なら、さらに環境の変わった高等学校への進学の際に、あらぬ不安を覚える事が無かったとは言わせない。

 しかし、僕はその点に置いて原因を抱えていた。道に迷ったなら誰かに道を聞けばいい。親切な友達が教えてくれるだろうし、新入生に先生は優しくしてくれるだろう。

 その点がそもそも問題だった。

 小学校六年間を憚る事無く無難に過ごしてきたからこそ、新たな人間環境に放り込まれる中学校では、根本的な問題を抱えた。

 友達ができるか不安だったのだ。

 人に道が聞けなければ、迷うしかない。迷ったら遅刻だ。そしたら目立つだろう。それがたまらなく嫌だった。

 今は普通に、遅刻が悪い事だとは思っていないのである。常識的に考えれば良くない事であるのだろう。しかし悪い事だとは思っていない。

 道は混む。電車は停まる。そういう外的な要因によって遅刻が確定してしまえば、そして実際それは高校以降良く起きることになるのだが、正直開き直れる。電車が止まるのは僕のせいではないからだ。

 ある程度規則的な生活をしている。だから、たまたま早く起きていれば電車が止まる事無く、遅刻する事は無かったとして、それは僕が早く起きなかった所為ではないのだから、――全ては偶然である。

 もっと大きな何かの影響下にあると言う事だ。

 中学に入って、幸運な事に友達はすぐできた。仲の良い、と言う表現が妥当かは知らないが、敬語に支配される事の無い友人的関係を持って接する事の出来る教師とも出会えた。

 世の中では、そうした教師の方がもてはやされるし、そうした教師の影響を受けて教師を志す者の方が多い気がする。他の、形式にハマった教師と言うのは過去に於いてはただの背景描写に過ぎない、実に無味乾燥としたものとなる。通り過ぎて来ただけの。何を話していたか殆ど覚えていない。

 授業にだってまくら位は居るだろう。講義だからと硬い話ばかりしているのもどうか。

 とにかく遅刻はしたくなかった。

 しかし、中学に入って、僕にはこういう知恵が付いた。

 遅刻する位なら、欠席してやろう。

 遅刻したら目立つ、ただそれを避ける為に、遅刻を無かった事にする。それには欠席をするのが確実かつ手っ取り早い。

 無遅刻無欠席を標榜する人間が思いつく事だろうか。

 僕の詰まらない矜持は無遅刻の方にあるのであって、無欠席には何らの価値も見出していなかったと言うだけの事に過ぎない。

 病欠をした事が有る。

 インフルエンザで学級閉鎖になったこともある。

 小学校の時に食中毒もあったかもしれない。多分あったのだろう。

 入院もした。手術もした。

 これだけの事で、無欠席の称号は脅かされる事になった。学級閉鎖なんてのは公欠になるだろうが、中学になっての病欠は関係ない。一回休めばお終いだ。

 だから、無欠席なんてのは、天に選ばれた人間しか賜る事の出来ない称号なのだろう。ならば僕にそれが与えられる事は無いのだ。

 しかしそれでも僕は無遅刻を堅持した。遅延証明書。あれさえもらえば開き直れる。

 遅刻と欠席にはどうやら、互換性があるらしい。

 何かと評価を下げたがる厳しい先生はこう言う。

「遅刻三回で欠席一にするからな。」

 生徒はこう考える。

 この授業は出席点は重要だ。しかし最低限のラインはどこにある。レポートは有るのか。テストは有るのか。五回休んだらアウト、ならば四回休める。つまり遅刻は十二回まで許される。

 下らない計算に見えるが、手帳を片手に予定を立てて生きているタイプの人間にとっては、最初にこの授業を落とさずに済むのかと言うのは重要な考え方だ。単位さえ得られればいい。

 だから、遅刻は欠席に換算される。

 しかしその逆は無い。遅刻が欠席の完全上位互換なのだ。

 欠席をいくらしようと、遅刻が換算される事は無い。

 そう言う事なのだ。

 だから、四回まで休めるのなら、遅刻ゼロで四回休む方が、僕の矜持が保たれると、ただそれだけの話なのである。

 くだらない拘泥りだ。

 いかにもくだらない。

 しかし、だからこそ僕は、出来る事なら遅刻はしたくない。

 それなのに、教室移動と言う奴が、僕にそれを誘発させようと強いてくるのだ。

 トイレに行くぐらいの猶予は有って然るべきではないのか。しかし迷路のような構造の十三号館がそれを許さない。なぜ各階にトイレが無いのか。

 先に言うと生徒にエレベーターは使わせてくれない。それは仕方が無い。

 だが、四階408教室から五階512教室に行かなければならないというそれだけの間にトイレに行くには、一度一階まで戻ってから、また五階まで上がらなければならない。

 なぜそれを強いられねばならないのかと言えば、この十三号館はこの学校がまだ女子大だった頃の名残で、トイレは女性専用しか無かったからである。教師はエレベーターが仕える。だから男性教師も別に困らないわけだ。

 だが生徒は困る。大いに困る。

 僕の様な人間には、苦痛だ。

 だからなるべく、朝の内に済ませておきたいが、なるほど、何かの要因が僕をトイレに向かわせていると言う訳である。

 そしてトイレに行く時も僕は走ったりはしない。建物内、とりわけ廊下は走ってはいけないものである。

 ――僕は何に縛られていると言うのだろう。そんな事は目の前の問題からすれば瑣末な事である。そんなものを守っていた所で満たされるのは自分の矜持だけである。

 しかし、走れない。

 この建物で男子生徒が走っていたとすれば、それはトイレに向かっているからである、と言うのは状況からごく簡単に推察できるロジックである。

 周りにいるのは殆どが女子学生なのだから。

 猶更走る訳には行かない。

 とことん、自分は矮小な人間なのだと思う。その癖、傲慢である。

 やっとの思いでトイレを済ませて腕時計を確認する。まだ休み時間は五分もある。

「あ、高良田君だ。おはよう。」

「え? ああ、おはよう、廻谷さん。ごめん、僕急いでいるからさ。」

 声を掛けられてしまっては返事をするしかない。それは良く知る同輩である。しかし、急いでいると言っても僕は走れない性質なのだ。早歩きをすして彼女をかわす。

「どうしたの、何だか慌ててるみたいだけど。」

 しかし彼女はそう言って、僕の横について来た。その点については何の疑問も無いのだが、しかし。

 ――廻谷さん。かいたにさんと読むのかと思ったら、これでマワリヤと読むらしい。下の名前は羽月である。別段言う事も無い。

 しかし僕は急いでいる。正直慌てていると言っても良い位だ。

「ああ、ほら、この後512教室だから。」僕は急いでいるのだ。と後に続く言葉を省略して答える。

「それは知ってるけど、何で慌てているのかなって。」

 彼女はきょとんとして、立ち止まった。

 ――何で? 

「何でって?」

 思わず僕も立ち止まる。

 質問に質問で返してはいけないのじゃなかったか。これでは話がこじれる。僕は急いでいるはずなのに。

 僕の質問の意図はこうだ。廻谷さんも僕もこれから同じ授業を同じ教室で受ける事になったのは先週からであるが、これから同じ教室に向かわなければならない。つまり彼女と行き先は同じなのだ。この時間にこの場所で彼女と遭遇するのも不思議ではない。

 だからこそ問いたい、逆になぜ彼女はこんなに落ち着いているのかと。

 いや、僕が慌てているから余計そう見えるだけなのかもしれない。

 それにしても、彼女と僕に流れている時間は決定的に違うのではないか。

 錯覚が錯覚で無くなる。

「だって、授業開始まであと四分もあるじゃない? そんなに急いでもしょうがないんじゃないかな。」

 僕にとっては重要なのだ。その点について最善を尽くしているのはさんざ述べた通りである。しかし僕はこうして歩みを止めている。

 あと四分もある。

 まだ四分ある。

 いや、四分しかないのではないか?

 時間の感覚は違うものだ。

 まだ五分あったはずなのに、もう一分経っているのだから。

「そうは言ってもでも立ち止ってる場合じゃないだろう。」

 彼女を置いて僕は歩き出す。後から彼女が付いてくる。声だけが聞こえる。

「それはそうなんだけど、大丈夫だよ、急がなくても。」

「遅刻をするのは嫌なんだ。」

 正直な所を述べる。今、僕にとって重要なのはそれだけだ。

 廻谷さんのペースに捕まってしまう訳には行かない。

 彼女は確かに、独特の雰囲気を持っている。ゆるふわとか言うんじゃなかったか。たしかにゆったりと鷹揚な雰囲気かつ、自分をしっかり持っている。彼女にはどんな矜持が有ると言うのだろう。何となく気になる。

「でも、急がなくても大丈夫だよ。」

 さっきからそれしか聞いていない。何となくイライラしてくる。落語の長短じゃあるまいし。

「それがどうしてなのか、僕は聞きたいんだけど。」

「うーんとね、この授業は先生が遅れてくるからだよ。出席確認は授業開始から十分後くらいだし。教室移動が大変なのを知っているんだ。」

「――何だって?」再び立ち止まる。

「……授業始まっても、出席確認までいつも雑談してるんだよ、だから、急がなくても大丈夫だよ。これからはのんびり行こうよ。」僕の隣に歩み寄って、廻谷さんは笑う。

「そりゃ、生徒想いの優しい先生だね……」ため息交じりに、僕は再び歩き出す。もう急ぐ理由も無い。

「だから、先生も遅れてくるんだってば。それに――」

 ――なにを拘泥していたのか。くだらないじゃないか。

 つまらない矜持だと言うのだ。

 誰もが自分の時間で動いているじゃないか。そして、他人に会わせると言う術をその先生は良く分かっている。生徒に好かれるのも解る気がする。親切な廻谷さん相手にイライラしていた自分自身に、情けなさを感じる。

「ねえ、高良田君は遅刻っていけない事だと思う?」

 何となく、廻谷さんはその先生が遅れてくる事を、僕が咎めるのじゃないかと思っているらしい。何となくだが、教師の怠慢だと。

 そんな事は思っていない。

「……遅刻は別に悪い事とは思っていないよ。でも僕は、遅刻をしたくないんだ。――変な話だと思うけど。」

「もし遅刻をしても、遅刻にならなかったらそれで良い? それでも、自分の中に遅刻をしてしまったという事実は残ってしまうから、悔しいとか?」

 遅刻がいけない事かどうか――彼女のその質問の意図はそこにあったのだ。

 悔しい――いや、罪悪感? しかし僕は遅刻を悪い事と思ってはいない。

「――意地みたいなもの、なんだな。つまらないプライド、見栄だと思う。ただ、自分にとっては良くない事なんだ。歯を磨くのを忘れてしまったとか、その程度の不快感を避けたいだけなんだ。」

 遅刻をしてはいけない。

 もしかしたら、これは自分自身にかけた呪いのようなものだったのかもしれない。僕は呪われていたのだ。

 そう考えると、笑えて来た。

 しょうもない呪いもあったものである。

「じゃあ、そんな高良田くんに、私から提案が有ります。」

「提案?」

「これから私とどこか遊びに行きませんか?」

「……これから?」だって授業が、と言いかけた僕の口元に手を当てると、廻谷さんはその指先を自分の携帯の画面へ向けた。

 僕はそこに表示された『連絡事項』を眼でなぞる。

「本日の二時限目の授業は休講にします――って、これ?」

 連絡はメールで来ている。受信時間は、一時間前。

 全く、携帯を見る暇も無かったのである。それにしても、廻谷さんは、それを知っていたのならもっと――早く言った所で何も変わらないではないか。

 急がなくても大丈夫だと、最初から彼女はそう言っている。

 廻谷さんは控えめに、小さな声で笑っている。耳が擽られるような錯覚を覚える。

 僕はからかわれたのだ、ほんの少しだけ。そう言うと彼女は笑いながら、急いでいる高良田君が可笑しかったから、と言った。

「高良田くんって、確か午後は授業入れてないよね? 私も入れて無いんだ。」

 休講。

「なるほどね。」

 そう言う事もあるのだ。誰かの都合には合わせなければいけない。先生だって休みたくて休んでいる訳じゃあ無いと言う物だ。授業をしたいに決まっている。仕事だし。

 だから、僕はとりあえず、廻谷さんの都合に合わせる事にした。

「ほら、せっかくだから、京都大火から併せて一気に見ちゃおうと思うんだ。」

「そうだね、今から行けば、上映時間には間に合うか。」

「うん、だから遅刻はしないよ高良田君。それまで、少しお茶でもしようよ。」

 本当に、これからは急がなくても大丈夫なのだろう。

 

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