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 しばらく、無心に狂喜と醜さが入り混じった景色を眺めたあと、自分の置かれた状況に気が付いた。下にいる人が冷静さを取り戻してここに来たら、真っ先に自分が疑われて面倒なことになりそうだ。いや、面倒なことはすでに起こっている。桂木についていけば警察沙汰どころではないかもしれない。



 桂木と同じように静かに市ヶ谷もこの場を去った。


――○月○日○○時


――○○地区○○番地


――メイプル


桂木はここに来いと言った。



つまり、これもまた「命令」というやつだから指示通りに喫茶店に行くのだろうと市ヶ谷はぼんやりと思い浮かべた。すんなりと命令に従おうとしているのには、もう一度、あの特別な景色を見てみたいからだった。



不況でどんよりと沈んでいた街を一瞬にしてバラ色にしてしまったほどなのだから期待してしまう。


ただ、自分でいいのだろうか。


桂木ユズリは言っていた。


名前や顔よりも先に資産と身なりをみると。


資産はいうまでもなく、身なりにしても近所の人からもらったおさがりの制服であちこち擦り切れている。


モヤモヤとした気持ちのまま歩いているといつの間にか家についていた。





 ジグソーパズルの一つのピースのかのように小さく存在している個人営業の酒屋が市ヶ谷の住んでいる家だ。一階は店と食卓、二階は家族各々の部屋がある。


早く建て替えろと怒鳴りつけたくなる古い外装で、実際に住んでいてもそこら中が傷んでいて暮らしにくい。他人を貧相な家に招待したくないがそもそも友達と呼べる人物はほとんどいないのでそこはあまり悩んでいない。



問題は招待したくないような家が店そのものだということだ。父親は酒を売るところだから見た目はどうでもいいんだと頑なだが、新しいお客さんはほとんどこない。


 店の出入り口の重いドアを開けると、いきなり怒鳴り声が響き渡った。


「やっと帰ってきた。早く手伝いなさいよ」


 妹の双葉だった。


双葉は怠そうにレジカウンターの椅子にもたれかかって睨んできた。カウンターには少女漫画が置いてあり接客とは程遠い態度をとっていた。


「そんな大声ださなくても……。お客さんに迷惑だろう」


「お客さん? いるとでも思った?」


 二人が黙ると、店内も静かになった。ただ時計の針の音だけが支配する空間になっていた。


「遅れたのは誤るよ。かわるからさっさと奥に引っ込んでいろ」


「いや、私はこのままのんびりと漫画でも読んでいるから、今日はあんたが会計やってね」


「なっ、それはお前の役割だろ」


「遅刻したやつに権限とかないから」


 双葉は市ヶ谷を無視して半開きになっている漫画を読み始めた。


 市ヶ谷は着替えもせずに溜息を吐いてキャッシュレジスターを開けた。


 さっさと仕事を終わらせてしまいたかった。


 小銭を数える。


 一枚。


二枚。


三枚。


日常に戻っただけなのになぜ憂鬱になっているのだろう。


半分を会計終えてはっとした。


市ヶ谷の中で何かが芽生え、何年も閉じ込められていた檻から一瞬の閃きによって脱出したかのような解放感に満たされた。


「なにをやっているのだろう」


 バカらしくなってきた。


ついさっきまで何億が手に届くところにあったというのに、今では小銭をちまちまと数えている。


「どうしたの? どうせすぐ終わるでしょ」


 急に市ヶ谷の作業が止まっているのをみて双葉は怪訝な顔をした。普段の市ヶ谷なら黙々と会計をするはずだ。


「やってられない」


 市ヶ谷は小銭をレジに戻して仕事を放りだした。


「は?」


「たぶん、この先も店の手伝いはできない」


「ちょっとまってよ。あんた急にどうしたの?」


「他にやることができたんだ」


「手伝いできないって、ふざけんじゃないわよ! 私だって我慢してやっているのに……」


「いいや、僕はもうやらない。決めたんだ」


 市ヶ谷は立ち上がった。


「みんなが協力しなきゃこのお店なくなっちゃうじゃない!」


「潰れたら潰れたで結局その程度の店だったんだよ。周りを見てみろ。どこもかしこもシャッターおろしているじゃないか」


「よくもそんな……。生活はどうなるの!」


 鞄のチェックを開けて、札束の中からいくらか取り出してカウンターに叩きつけた。目安で三十万あまりだろうか。市ヶ谷は譲る金額など考えていなかった。



 ただ許される口実が欲しかっただけだった。


「とりあえずこれで今月の生活はなんとかなるだろう」


「こんな大金どうしたの」


「言えない。それと今日は外で食べてくるから晩飯はいらないって母さんに言っておいてくれよ」


 そして、店から出た。


 後ろの方から双葉の言葉になっていない声が聞こえているが関係なかった。

自由を金で買ったという絶対的事実が強く背中を押してくれている。


 電車を乗り継いで桂木のいる喫茶店に向かった。


「ここが桂木さんの言っていた喫茶店か」


 明かりはついているが、カーテンで中が確認できない。


 店の外装の雰囲気は喫茶店なのだが、扉にはペンキで「CLOSE」と書かれた看板がぶら下がっていて営業しているのかは不明だった。


 だが住所は合っているはずだ。


 進まなければ何も起こらないので、市ヶ谷は思い切って木造りの重い扉を開けた。


「あのお、すみません。お店やっていますか。……っておわあああ!」


 まるで市ヶ谷が入ってくるのを待ち構えていたかのように、鋭い眼光の女性が前を塞いでいた。


「COLSEという文字が読めませんでしたか? お引き取りください」


 丁寧な口調で断り、女性は扉を閉めようとする。


「僕は呼ばれたんです! 桂木という人からここに来いと命令されたのですが」


 桂木という名前に反応して、女性は初めて市ヶ谷の顔を見た。


「桂木? なんのようだ」


「西野。いいのよ。通してあげなさい」


 奥から声がした。


「ずいぶん早かったわね、市ヶ谷君」




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