腹黒王子は、コウモリ令嬢を手放さない
ふっと目を開けた瞬間、視界いっぱいに飛び込んできたのは、吸い込まれそうなほど美しいスミレ色の瞳だった。
「……ロイド殿下?」
反射的に口にした途端、その人は「ああ、よかった」とでも言いたげに、くしゃりと目尻を下げた。
「そうだよ。君は、僕の部屋のバルコニーで気を失っていたんだ。大丈夫?」
「あ、はい」
私リリス・ヴァンピールは、コウモリの獣人である。
婚約者に浮気され、現実から逃げるように夜空を飛びまわっていたら、運悪くフクロウに見つかった。
命からがら逃げきったものの、慌て過ぎたせいで、目の前の窓に気づかず激突。
――我ながら、間抜けすぎる。
「どこも痛くない?」
ロイド様は、今度はそっと私の手を包み込みながら、顔を覗き込んだ。
整った美しい顔に「ええ、大丈夫です」と照れながら答えた瞬間、ロイド様の薄く形のよい唇が歪んだ。
「ねぇ、どうしてコウモリが人の言葉を話せるの?」
(…………どうしよう)
背筋に冷たいものが流れ落ちる。
不覚にも、変身を解いていなかった。
いや、解いていたら解いていたで「王子の部屋に忍び込んだ不審者」として人生終了だっただろう。
どちらに転んでも詰みである。
――三十六計逃げるに如かず。とにかく逃げないと!
寝かされていた菓子箱から、勢いよく飛び出そうと羽をばたつかせた。
「おっと」
手――いや、翼はしっかり捕まれたまま。
気づけば、いつの間にか取り出したのか、果物ナイフの切っ先が私の喉元にぴたりと当てられている。
「逃がさないよ」
(…………終わった)
お父様、お母様。
婚約者に裏切られた娘は、王子の部屋へ侵入した挙句、果物ナイフで捕まるという、なんとも締まらない最期を迎えそうです。
どうか、先立つ不孝をお許しください。
◇◇◇
建国の頃、我がヴァンピール家は王家に協力し、その功績により伯爵位を賜った。
コウモリへ姿を変えられる力を生かし、偵察や情報収集で大いに活躍したらしい。――らしい、というのも、そんなの何百年も昔の話だからだ。
「やっぱり獣人は実在したんだね。王家の歴史書に書かれていたとおりだ」
泣く泣く事情を話すと、ロイド様は爽やかな笑顔を浮かべながら、満足そうに頷いた。
果物ナイフをちらつかせながら、怯える女の子(?)にあれこれ問い詰めるなんて、鬼畜の所業である。
「でも、今は人間との混血が進んでしまって、ほんの少しの時間しか変身できません」
脅したお詫びなのか。それとも、最後のお情けなのか。
ロイド様が差し出してくれたブドウを一粒、ちみちみと齧る。
――甘い。
人生で、こんなに美味しいブドウを食べたのは初めてだ。
さすが王城のブドウである。命の危機だというのに、思わず「おいしい」と頬が緩んでしまった。
「君、随分余裕だね」
「ブドウ、大好きなんです」
「…………ああ、そう」
どうせ死ぬなら、好きなものをお腹いっぱい食べてから死にたい。
「あと、開き直るたちなんで」
「なるほど」
妙に納得したように頷くと、ロイド様は今度は桃を手に取った。
果物ナイフで器用に皮を剥いていく。
「だけど、コウモリに変身できるなんてすごいじゃないか」
「これ、結構体力を消耗するんです。変身したあとは、ちゃんと栄養を取らないと貧血で倒れます」
「やはり人の血が必要なのか?」
ロイド様の形のよい眉が、きゅっと寄る。
「血なんて飲みませんよ」
どうしてコウモリといえば、血を飲むものだと思われるのだろう。
――いや、もちろん血を飲む種もいるが。
おかげで「気味が悪い」と嫌われて、ひどい時には石を投げつけられる。
「人間だって、ブラッドソーセージとか食べるじゃないですか。コウモリだけ『気味が悪い』扱いするのは理不尽です」
「確かに、言われてみればその通りだな」
「まあ、血を吸う生き物が、嫌がられるのもわかりますけど」
病を運ぶかもしれないと思えば、警戒するのも当然だろう。
生き物の本能として、避けたくなる気持ちは理解できる。
「だけど、同じやり方では生き残れないから、彼らも必死なんですよ」
「生き残るために?」
「ええ。違う生き方を選んだからこそ、生まれる強さがあるそうです」
母と同じように、普通の人間に生まれたかったーーそう泣きじゃくる私を、父は優しく慰めてくれた。
きっと、違いには意味がある。
それでも、友だちにさえ打ち明けられない秘密を抱えたまま生きるのは、思っていた以上に辛かった。
ロイド様は少し考え込み、それから剥き終えた桃を私の前へ差し出した。
「はい」
「…………え?」
「お詫び。桃も好きだろう?」
わぁい!
「王城の桃だ!」とかぶりつく。
「それで、なんでコウモリの姿になっていたの?」
「婚約者の浮気調査です」
二年前に、クレイン公爵家のアラン様と婚約をした。
甘さの滲む端正な顔立ちは、人を惹きつける華やかさと、どこか軽薄な危うさがあった。
女性に人気がありそうな人だなと、ぼんやり思ったことを覚えている。
母も同じ印象を持ったらしく「恋人としての魅力より、父親としての安心感がある方がいいんだけどね」と、どこか複雑そうな顔をした。
とはいえ、公爵家からの縁談を断れるはずもなく、そのまま婚約が決まった。
婚約当初のアラン様は、私を大切にしてくれていたと思う。
血筋を誇るところは少し鼻についたけれど、それでもアラン様は話題が豊富で、私を楽しませようとしてくれた。だから私もその気持ちに応えたくて、アラン様の好みを覚え、少しでも会話が弾むよう努めた。
でも、ここ一年ほどのアラン様は違っていた。
言葉の端々に私への侮りが滲み、誰かと比べるような言葉も珍しくなくなった。
誕生日や季節の贈り物も、義務を果たすための最低限の品。
夜会へ行けば女性たちに囲まれ「少し失礼する」とだけ言い残し、私を一人残して姿を消してしまう。
「へぇ。結果は?」
「アラン様は、ピーコック子爵家のミランダ様と楽しそうに観劇に行かれていました」
「それだけ?」
「…………仲良く腕を組んだまま、宿に入られました」
恋人相手には宿へ入るときでさえ、きちんとエスコートするらしい。
その気遣いを、私にも少し分けてほしかった。
うっとりとアラン様の整った横顔を見つめる、ミランダ様の幸せそうな笑顔が、今でも忘れられない。
「アランは三男なのだから、ヴァンピール家に婿入りする立場だろう? 浮気をされたのなら、婚約を解消すればいい」
「そう簡単にはいきませんよ。うちの爵位は、あちらより下なんですから」
相手は、王家の親戚筋に当たる公爵家。
そんな相手に伯爵家から一方的に婚約の解消を申し入れるなど、王家の顔に泥を塗る行為と受け取られてもおかしくない。
「『男性にはよくある遊び』だと言われれば、それまでですし」
貴族の結婚は個人の感情よりも、家同士の結びつきが重んじられる。
跡継ぎさえ残せば、夫が愛人を囲うことくらいは目を瞑るべきだという風潮さえあった。
さすがに結婚前から大っぴらに浮気をすれば話は別だが、それでも多少の浮ついた振る舞いには寛容な空気がある。
父もアラン様の態度に苛立ち、折に触れて遠回しに諫めてはいた。
しかし、婚約を解消する決定打になるほどの非があるかと問われれば、誰も首を縦に振れない。
そんな、なんとも微妙な状況だった。
「それに、コウモリの姿で盗み見していただけなので、証拠なんて何一つありません」
翼を体に巻き付け、小さく丸くなる。
便利な能力に見えるが、この力で何かを変えられたことは一度もなかった。
知れば知るほど傷つき、真実を掴んでも現実は変わらない。
いっそのこと、何も知らないままのほうが幸せだったのかもしれない。
「つまり、証拠さえあればいいんだろう?」
妙に低い声に顔を上げれば、ロイド様の口元だけがゆっくりと吊り上がった。
笑顔を浮かべているはずなのに、切れ長の瞳の奥だけは、少しも笑っていない。
王子というより、悪の黒幕である。
「ロイド殿下、何か悪いことを考えていませんか?」
「失礼だな。僕は、自他ともに認めるいい人なんだ」
「そうですか……?」
本当にいい人は、自分から「いい人」だとは名乗らない。
ロイド様は、階段から落ちそうになっている人を見かけたら、助けるどころか、そっと背中を押しそうな気がする。
そんな私の気持ちを察したのだろうか。
気品に満ちた、何とも食えない笑みを浮かべたロイド様は、細く長い指先でブドウを一粒つまみあげた。
「ほら、食べなよ」
「………え?」
「ブドウ、好きなんでしょう?」
そう言って、まるで小鳥に餌をやるように私の口元に差し出してくる。
形のいい指先を差し伸べ、美しく微笑む王子様は、誰が見ても絵になる光景だろう。
なのに、さっきの笑みを知ってしまった今となっては、その美しい笑顔は、もはや恐怖そのものだった。
◇◇◇
本日は、王家主催の夜会である。
煌めくシャンデリアの元、華やかな笑い声と楽団の演奏が大広間を満たしている。
そんな中、グラスを片手に上機嫌で笑うアラン様の姿が目に入った。
その隣ではミランダ様がアラン様のグラスを気にかけ、しきりに酒を勧めている。
――私に足りなかったのは、こういう気遣いだったのかもしれない。
頬をわずかに染めたアラン様は、楽しげにミランダ様の肩に手を添えると、そっと耳元に顔を寄せた。
そして、そのまま人目を避けるように奥にある休憩室へと姿を消していく。
「…………本当に行きましたね」
「うん。人の威を借る者ほど、自分の立場も場所も弁えられないからね」
王家主催の夜会で、不貞の現場を押さえる――それがロイド様の考えだった。
王族たるロイド様が証人となれば、これほど確かな証拠はほかにない。
これなら婚約解消を申し出ても、誰も私を責めないだろう。
ロイド様は、袖口から覗く腕時計にちらりと目をやった。
「部屋に入って10分経ったな。そろそろ行こうか」
「いいえ。まだ決定的な証拠にはなりませんで、もう少々お待ち下さい」
「……こんなに離れているのに、わかるの?」
「ええ。私、耳がいいんです」
休憩室の扉の前に立てば、やがて私の耳に、甘く囁き合う男女の声が響いてきた。続いて、衣擦れの音。時折、小さく弾んだ笑い声まで混じっている。
「そろそろ入っていい頃です」
私が告げると、ロイド様は爽やかに笑った。
いかにも善良な人間を思わせる笑顔を浮かべたまま、礼服のポケットへ手を入れる。
「じゃあ、これが必要だね」
取り出されたものを見て、思わず固まる。
「それ、何ですか?」
「休憩室の鍵だよ。踏み込むのに必要だろう?」
(……準備がよすぎじゃない?)
アラン様を問い詰めることばかり頭にあって、休憩室の鍵のことなんて思いもしていなかった。
イマイチ私は、考えが足りない。
もうちょっとしっかりしなければと、頬を叩いて気合いを入れている間に、ロイド様は迷いなく鍵を差し込んだ。
――カチャリ。
ロイド様がそっと手で扉を押すと、ぎぃっと軋む音を立てながらゆっくりと開いていく。
それでも、部屋の中の二人は気づかない。
長椅子の上で、互いに口づけを交わすことに夢中になっているせいだろう。服装も微妙に乱れているし、正直、目のやり場に困る。
「リリス、思いきり叫んでね」
さすがに気づかなすぎではないだろうかと呆れる私の耳元で、ロイド様が囁いた。
――なるほど。
正々堂々と詰め寄るのではなく、目的は騒ぎを起こして目撃者を集めることだったらしい。
だけど、まずはアラン様と話をしてからだ。できることなら、穏便に済ませたい。
扉を閉めようとすると、ロイド様は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに私の意図を察したのか、静かに廊下に出てくれた。
(…………さあ、行くわよ)
わざと足音を響かせながら、アラン様のいる長椅子に近づいていく。
その足音で、ようやく我に返ったのだろう。
長椅子の上で抱きあっていた二人は、弾かれたように身を離した。
「誰だ!?」
「な、なんですの?」
反射的に振り返ったアラン様は露骨に顔を顰め、ミランダ様は慌てたように乱れた衣服を整え始めた。
その顔からは、先ほどまで浮かべていた陶酔した表情はすっかり消え失せている。
けれど、頼りにするようにアラン様の側を離れようとはしない。
「…………アラン様。ここでミランダ様と何をされていたのですか?」
政略結婚で恋ではないのだから、傷つくことはないと思っていた。
それでも、これまで婚約者として寄り添おうとしてきた分だけ、やはり辛い。
「あ、いや。これは違うんだ」
「何が違うのですか? ミランダ様と唇を重ねて、抱き合っていたじゃないですか」
「いやいや、これはまあ、何というか……」
まだ酔いが残っているのか、シャツの胸元をだらしなく開けたまま、アラン様は口籠っている。
遊び慣れている割に、こういう場を取り繕うのは苦手らしい。
すると、ミランダ様がアラン様を庇うように口を挟んだ。
「リリス様の見間違いですわ。気分が悪くなってしまって、アラン様に介抱していただいただけです」
「そう! そうなんだ! 私たちに疚しいところなどない」
介抱しただけの関係というのなら、なぜ今も仲良く長椅子に座っているのだろう。せめて離れてほしい。
「ミランダ嬢が急に気分を悪くしたから、たまたま近くにいた私が付き添っただけなんだ」
「たまたま近くに、ですか?」
「ああ、そうだ」
アラン様は、自信ありげに言い切っている。
けれど私は、夜会で二人が仲睦まじく寄り添っていたところをしっかり見ている。
いくら本人たちが否定したところで、その場にいた人たちに聞けば、すぐにわかる話だ。
自分から偽証だと露見する証拠を増やして、どうするのだ。
それなのに、なぜかアラン様は胸を張り出した。
「私ほどの立場になれば、招待客たちの様子に気を配るのは当然だからな」
「さすがアラン様ですわ。お優しくて、気配りもできて素敵です」
「まあ、そうだな。何しろ私は、上に立つ人間だからな」
いや、王族から見れば臣下側の人間だ。そしてアラン様はまだ爵位すら持たない、ただの若造である。
突っ込みどころが満載すぎて、もはやどこから突っ込んでいいのかわからない。
だが、ミランダ様の褒め言葉に気をよくしたアラン様は、今度こそ余裕たっぷりに私へ向き直った。
「それより、なぜリリスがこの夜会に来ているのだ? 私は君のエスコートを断ったよな?」
「ええ。ですから、父と参りました。まさかアラン様がいらっしゃるとは思っていなかったので、お姿を見つけて、こちらへ参ったのです」
用意していた嘘を淀みなく口にする。
私が何も語らずとも、父はすべてを察していたらしい。
『好きにしてこい。責任は私が取る』
そう言って、父は頼もしくもない薄い胸を叩いた。
「……もしかして、私たちを疑って後をつけてきたのですか?」
「まあ、そうですけど」
「リリス! 君はそんなことをして、淑女として恥ずかしくないのか?」
ミランダ様がショックを受けたように呟けば、アラン様は責めるように声を荒げた。
浮気した方が被害者面とは、恐れ入る。論点をすり替えて誤魔化す気だろうか。
「おまけに、事情を聞きもせず浮気だと決めつけてるだなんて、淑女失格だ」
「だから、事情を伺いに参りました」
「私を信用していないのか? 君がそんなに嫉妬深く、感情的な女性だったなんて失望したよ。少しはミランダ嬢を見習って、慎みを覚えた方がいい」
(……いや、どの口が言っているの?)
私が嫉妬深いのではない。アラン様が堂々と浮気をしたから、問いただしているだけだ。
呆れてものも言えない私を、反省しているとでも勘違いしたのだろう。
アラン様は、ふんと鼻を鳴らし、勝ち誇ったように顔を上げると偉そうに告げた。
「公爵家の私の妻になる者には、それ相応の振る舞いが必要だ。ましてや私を責めるなど、もってのほかだ。君の行動は、私とミランダ嬢の名誉を傷つけたのだぞ」
ミランダ様はアラン様の言葉に「感動した」と言わんばかりに、目を輝かせている。
「名誉を傷つけたもなにも、本当のことでしょう?」
「だから、誤解だと言っているだろう。婚約者なら、まず私を信じるべきだ」
「実際に抱き合っていましたよね?」
「君の見間違いだ。いい加減にしてくれ」
(……物証だらけなのに、よくここまで開き直れるわね)
きちんと反省して謝ってくれれば、穏便に婚約を解消する道も考えていた。
だが、ここまでくれば、もはや酌量の余地はない。
「これ以上くだらないことを言い続けるなら、父上に話して婚約を破棄する」
(よし! 言質を取ったわよ!)
望むところである。
人生は長いのだ。浮気をされた挙げ句、それを責めた私の人格まで貶められるくらいなら、一人で生きていくほうがよほどマシである。
「かしこまりました。婚約の破棄をお受けいたします」
「………………え?」
アラン様の口から、間の抜けた声が漏れた。
まさか、公爵家という後ろ盾を持つ自分を、私があっさり手放すとは思っていなかったのだろう。
だが、もう父の許しは得たし、アラン様に未練など、これっぽっちもない。
「さようなら、アラン様」
呆然と固まるアラン様の顔を横目に、満面の笑みを浮かべる。
そして、大きく息を吸い込んだ。
――さあ、反撃の時間だ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁあ!」
腹の底から思いきり叫ぶ。
その瞬間、扉が勢いよく開かれた。
「何事だ!」
剣を帯び、マントを翻した騎士たちが、一斉に部屋へとなだれ込んできた。
(……早すぎるわよ)
このタイミングで入ってくるなんて、叫ぶ前から扉の前に騎士を配置していたに違いない。
「王家主催の夜会で、このような破廉恥な振る舞いとは、なんたる醜態!」
「いったい何を考えているのだ!」
ロイド様に、台本でも渡されたのだろうか。
騎士たちは部屋の中を確認する素振りすら見せず、妙に芝居がかった口調でわざとらしく叫んだ。
その声で、アラン様もようやく事態を理解したらしい。
乱れた服装で、婚約者以外の女性と長椅子に座る自分――どう見ても不貞の現場だ。
アラン様は慌ててミランダ様から身を離し、シャツのボタンを留め始めた。
その途端、別の騎士が鋭い声を響かせた。
「動くな!」
命令されたことが気に入らなかったのだろう。
アラン様は不機嫌そうに手を止めると、騎士に咎めるような視線を向けた。
「君たちは誰の許可を得て、私にものを言っているのだ?」
「王族直轄の騎士なのですから、王族の許可ですよ。まさか、ご存知なかったのですか?」
アラン様より上の立場の方から命を受けて動いているのだから、今この場では、騎士たちの方がアラン様より上なのだと伝えたつもりだった。それなのに、アラン様は苛立たしげに私と騎士たちを睨みつけた。
「私を誰だと思っているのだ。私は、クレイン公爵家のアランだぞ。……これだから、身分もわきまえない下っ端の騎士は困る」
――伝わらなかったらしい。
だが、ミランダ様はアラン様を支持するように、大きく頷いている。この二人の頭の中が、よくわからない。
「君の身分くらい知ってるよ。でも、いくら王家の親戚筋だからといって、これは重大な不敬だからね。王家主催の格式ある夜会で何してくれてるのさ。国外からの来賓も招いているというのに、王家の面目、丸潰れだよ」
騎士たちの後ろから、笑いを堪えるように口元を歪めたロイド様が、悠然と前に進み出てきた。
「ロイド殿下!? どうしてここに?」
「ご令嬢の悲鳴が聞こえたから、駆けつけただけさ」
ロイド様からだらしなく開いたシャツへ冷たい視線を向けられ、アラン様の顔から、みるみる血の気が引いていく。
一方ミランダ様は、アラン様とは対照的に動じる様子もなく、アラン様を励ますように寄り添った。
「それにしても、場所くらい選んだらどうだい? 王家の夜会を逢瀬の宿代わりにするなんて、なかなか思いつくことじゃないよね」
王家の公式行事を、私的な情事の場にしたのだ。
いくら王家と縁のある家柄とはいえ、厳しい処分は免れない。
「い、いえ、決してそのようなことはしていません」
「ふぅん。じゃあ、その乱れた服装について説明してもらおうか?」
「こ、これには事情がありまして。……ちょっと暑かったので、胸元を開けただけです」
すると、後ろのほうから「まあ、暑くなるよな」と小さな声が聞こえ、騎士たちは一斉に、失笑を隠すように俯いた。
「へぇ。ご令嬢と二人きりになって、暑くなれば胸元を開けるのが公爵家の作法なんだ。勉強になるな。今度、クレイン公爵に直接聞いてみるよ」
この場だけでは済まず、父であるクレイン公爵にまで話がいくと思ったのだろう。
アラン様は情けない声を上げた。
「やめてください! 私は、具合の悪くなったミランダ嬢の介抱をしていただけなんです。リリス、君からも殿下にそう言ってくれ!」
(…………頭、大丈夫?)
なんで自分が裏切った相手に、庇ってもらえると思ったのだろう。
そもそも騎士を呼ぶために叫んだのは、私だ。ロイド様だって、内心ではそう思っているに違いない。
それなのに、真剣に問いただすような表情で、私へ顔を向けた。
ただ、その目だけは、どこか愉しそうな光を帯びていた。
「リリス嬢。アランはこう言っているけど、本当なの?」
「いいえ。お二人が乱れた格好で抱き合っているところを、この目で見ました。あれを介抱と呼ぶには、少々無理があります」
「おいっ、私がどうなってもいいのか!? 君は私の婚約者だろう!?」
焦ったように叫ぶアラン様だが、もちろん、どうなってもいい。
「先ほど婚約破棄を了承しましたから、もう他人です」
「あれは君が私の言うことを聞かないから、言葉の綾で言ったまでだ!」
「いいえ。ご自分がおっしゃったことには、最後まで責任をお持ちください」
うちの家訓は「弱きを助け、愚者には鉄槌を」だ。
困っている人には手を差し伸べるが、自分を傷つけた人まで助けるほど私はお人好しではない。
むしろ鉄槌を下すと決めたなら、相手に付け入る隙を与えぬよう、徹底的にやれと父から言われている。
「じゃあ、私はどうなるんだ!?」
「ああ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
ロイド様は、にっこりと笑った。
「命までは取られないさ。ただ、君たちの評判は、今日で死ぬだろうけどね」
弱点を見つけ、それを最大限に利用することこそ貴族の得意分野だ。
この先10年は、二人が夜会で何をしたのかを忘れる者はいないだろう。
自分が社交界の笑い者になる未来を悟ったのか、アラン様はカッと頬に朱を上らせ、唾を飛ばさんばかりの勢いで私に食ってかかった。
「リリス、お前の家もただでは済まないぞ! 騒ぎを起こして、我が公爵家の名誉を傷つけたのだからな!」
「私は、王家に仕える者として事実を申し上げただけです」
しれっと、王族に問われた以上、偽ることはできなかったのだと印象づけておく。
これで私からの告発ではなく、公の場で明らかになった事実という形になる。
何より、不貞の証拠がここまで揃っているのだ。立ち回りに長けた父が、この程度のことで我が家を守れないはずがない。
「この卑怯な裏切り者が!」
アラン様が私に掴みかかろうとした瞬間、ロイド様がすぐさま取り押さえた。
その隙にくるりと背を向けて廊下へ飛び出せば、騒ぎを聞きつけた招待客たちが、何事かと遠巻きにこちらを窺っていた。
――チャンスである。
瞬間的に両手で顔を覆い、肩を震わせる。
誰が見ても、婚約者の裏切りに傷ついた令嬢の姿のはずだ。
「…………リリス様、大丈夫ですか?」
お節介で有名なスターリング侯爵夫人が、心配そうな顔で私のもとへ歩み寄ってきた。
世話焼きで、善人。だからこそ、頼まれてもいないことまで親切に話してしまう。
――この場に、これ以上うってつけの人はいない。
「私、アラン様をずっと信じておりましたのに……」
ハンカチで目尻を拭きながら、先ほど目にした光景を途切れ途切れに語る。
コツは、すべてを話さないこと。
人は、隠された部分ほど想像を膨らませ、面白おかしく語りたがる。きっと私に都合のいい「自分勝手な男に裏切られた可哀想な令嬢」という物語を作り上げてくれる。
おまけに、自慢の耳で一部始終を聞いていたに違いない父が「娘が傷つけられた」とあちこちで吹聴して回っている。どうせ噂になるのなら、こちらに都合のいい形で広まるよう仕向けた方がいい。
――勝った。
そう思った瞬間、自らの未来を悟ったのだろう。
騎士に連れられ、肩を落としたアラン様がミランダ様に付き添われるように私の前を通り過ぎていく。
周囲の冷たい視線も、ひそひそと交わされる囁き声も届いているはずなのに、それでもミランダ様はアラン様を守るように隣に寄り添ったままだ。
あんなに情けない姿を目にしても、自分まで処罰されることになっても、ミランダ様はアラン様のそばにいたいのだろうか。
そっと、人にしては不自然に長い指へ目を落とす。
もし私が本当の姿を見せたとしても、全てを受け入れ、それでも隣にいていいのだと言ってくれる人などいないだろう。自分を隠したまま好きになってもらうしかないのだと思うと、どうしようもなく寂しかった。
スターリング侯爵夫人は何も言わず、ただ痛ましそうに私の肩を撫でてくれた。
◇◇◇
あの騒動から一か月後。
私は報告とお礼を伝えるため、王城を訪れていた。
もちろん、今日は人間の姿である。さすがに毎回コウモリの姿で訪問するわけにはいかない。
「ロイド殿下、ありがとうございます。おかげで無事に婚約を破棄することができました」
「いや、いいよ。こちらもアランが王族との縁を盾に振舞うたび、家名にまで傷がつきかねなかったからね。計画がうまくいってよかったよ」
ロイド様が穏やかに笑う。
そうしていると、物語に出てくる理想の王子様である。
「公爵家もあれほど証人がいたから、何も言えなかったみたいで。おかげさまで、我が家はかなりの慰謝料をいただけたそうです」
「かなり?」
「ええ。父が、とても喜んでいました」
つい、遠い目になってしまう。
父は、慰謝料の金額に小躍りしていた。
血筋だけを鼻にかける無能を追い払えた上に、慰謝料まで手に入ったのだ。
満面の笑みで「祝い酒だ」と言いながら、赤ワインをぐびぐびと飲んでいた。
当然、母の怒号が屋敷中に響き渡る。
『娘が傷ついているのに、何を祝っているんですか!』と烈火のごとく怒り、父は慌てて逃げ出したが、箒を手にした母に追い回される羽目になった。
「まあ、自業自得ですね。別の場所ならともかく、王家主催の夜会であんなことするなんて、アラン様も本当に馬鹿ですよね」
結果、アラン様はかろうじて貴族籍こそ残してもらえたものの、公爵家とは絶縁。
援助も交流も一切絶たれ、家の後ろ盾を失うことになった。
とはいえ、王家主催の夜会での一件を、ただの醜聞で終わらせるわけにもいかない。
せめて「二人は愛し合っていた」という体裁を整えるため、アラン様はミランダ様の家に婿入りすることになった。
こっそりコウモリの姿で偵察に行った父によれば、アラン様は迎えに来たミランダ様の馬車を前に「田舎暮らしなど嫌だ」と散々渋っていたそうだ。
息子に甘いクレイン公爵でさえ呆れ果てるなか、ミランダ様は「私との結婚を後悔させません」と、優しく諭し、ようやくアラン様を馬車に乗せたらしい。
「まあ、薬の影響もあったかもしれないけどね」
「……え?」
ロイド様は上着のポケットから取り出した小瓶を、面白そうに眺めた。
「これ、媚薬なんだ」
「それって、アラン様を嵌めたってことじゃないですか!?」
「うーん。でも、この薬は相手に元々そういう欲がなければ、ほとんど効果は出ないものだからね」
そうはいっても、本人の意思ではなかったのかもしれないと思うと、罪悪感が湧いてくる。
だが、ロイド様は「気にしなくていい」と手を横に振った。
「アランは部屋に鍵もかけていたし、受け答えだってしっかりしていた。理性はちゃんと残っていたよ。多少、薬が後押しした部分はあったかもしれないけど、あれは常習犯だね」
そう言いながら、ロイド様は私の目の前にある紅茶へ、ほんの少しだけ小瓶の中身を垂らした。
「試してみる?」
「目の前で薬を盛られて、素直に飲む馬鹿がどこにいるんですか」
「責任取って、結婚するよ」
「結構です」
即答すると、ロイド様は残念そうに肩をすくめた。
そして今度は、私の目の前にあったブドウの皿を、すっと自分の方に引き寄せる。
「えっ、ブドウは食べます!」
思わず手を伸ばして、皿をがっちりと掴む。
「媚薬がかかっているかもしれないのに?」
「ロイド様にそんな思いは抱いていないので、大丈夫です!」
ブドウを奪い返すと、急いで一粒口へ放り込んだ。
瞬間、芳醇な香りと濃厚な甘さがくちいっぱいに広がる。
「…………ふぅん。そんなこと言うんだ」
「美味しいなぁ」と幸せな気分に浸っていると、頭上から冷たい声が降ってきた。
顔を上げると、なぜだかロイド様がじっと私を見ていた
「ねぇ、僕に何か言うことないの?」
「え? お礼も言ったし、特上のワインもお持ちしましたけど?」
我が家の領地で作られた、選りすぐりの年代物のワイン。
これ以外に高価で希少なものなど、そう簡単には用意できない。
他に渡せる品があっただろうかと考え込んでいると、ロイド様はなぜか不満そうな顔でちっと舌打ちをした。
――王族なのに、行儀の悪いことである。
「もういいよ」
私は何か、ロイド様の気分を害してしまったらしい。
美しいスミレ色の瞳は、苛立たしげに細められている。
「じゃあ、今度は僕に協力して」
「へ?」
「慈善事業で助けたわけじゃないからね。僕がわざわざ君に協力してあげたんだ。次は、君が僕に協力する番だよね?」
契約というものは、普通は結ぶ前に条件を提示するものなのではないだろうか。
そんな言葉が喉まで出かかったが、ちらりと向けられたロイド様の瞳は、冷たく光っている。
(……とりあえず、取り上げられる前にブドウだけは食べておこう)
せわしなく手を動かし、残ったブドウを次々と口へ放り込んだ。
◇◇◇
ブドウをせっせと頬張るリリスから、机の上に置かれた媚薬へと視線を移した。
アランは、裕福なヴァンピール家の婿の座を手放すつもりはなかったらしい。
その一方で、ミランダ以外にも関係を持っている女性が何人もいることがわかった。
だからこそ、その中でもひときわアランへの執着が強そうなミランダに、先に話を通しておくことにした。
『アランを独り占めしたくない?』
そう持ちかけると、アランに執着する彼女は目を輝かせ、迷うことなく計画に乗ってきた。
計画通り、評判を落とし、行き場を失ったアランはミランダのものになった。
皆から責められる中、唯一の味方であり続けるミランダに、アランは心を寄せるだろう。
領地の片隅に押し込められれば、他の女性に目移りをする機会もない。
何もできず、何も持たないアランは、やがてミランダだけを心の拠り所にするしかなくなる。
彼女が望んだ「独り占め」は、これ以上ない形で叶うはずだ。
(……これでリリスを苦しめるものも、縛るものもなくなった)
もう一度リリスに目を向けると、半分ほどになったブドウの房を、惜しむように見つめている。
僕のことよりブドウに関心を寄せるリリスを見て、思わずため息が漏れる。
――どうせリリスは、僕のことなんて覚えていないのだろう。
十歳の誕生日。
母が亡くなった翌月、僕は王宮を抜け出して森へ入った。
平民出身でありながら、その美貌を武器に国王の愛妾となった母は僕を生んだ。
けれど、父である国王にとって、僕は四番目の息子に過ぎなかった。
おまけに正妃が生んだ三人の兄は、学問だけでなく人柄にも優れていた。
「いらない第四王子」「王家の不良債権」「顔だけ王子」
口の悪い使用人たちは、陰でそう僕を呼んでいた。
母が亡くなると、侍従たちに、出世を諦めたような空気が広がっていった。
寄せられた期待に応えることもできず、何も持たない自分は、ただ周囲の足を引っ張っているような気がして、苦しくて仕方がなかった。
――僕なんて、王城からいなくなった方がいい。
そうすれば侍従たちも兄の側につけるし、王家も、僕一人のために人を割く必要がなくなると思った。
いや、本当はそんなことを考えていたわけじゃない。
ただ、誰かに探してほしかった。「お前は必要な子だ」と言ってほしかった。
だから、わざと森へ向かったことが伝わるように、密かに細工をしたつもりだった。
これなら、きっと誰かが気づいて迎えに来てくれる。
ーーそう思っていたけれど、夜になっても誰も探しに来なかった。
疲労と空腹で足は思うように動かず、その場に力なく腰を下ろした。
冷たい風が吹き抜ける中、僕には行く当てもなく、帰る場所もなかった。
誰にも愛されず、誰にも必要とされないのだと思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられ、堪えていた涙が溢れた。
暗闇の中、一人きりで嗚咽を漏らし続けた。
せめてもの月明かりが雲に隠れ、辺りが闇に沈んだ、その瞬間だった。
「み~つけた!」と場違いなほど呑気な声がした。
バサバサっと羽音がしたかと思うと、黒い小さな影が僕の肩へ降り立った。
「あなた、迷子になったロイドって子でしょう? おにーさんが探してるわよ」
よく見ると、それは小さなコウモリだった。
コウモリがしゃべったことに驚き、魔獣かもしれないと反射的に手を振り払う。
すると小さな体はあっけなく宙を舞い――べしゃっ、と地面へ落ちた。
「あ、ごめん」
咄嗟に謝ると、コウモリは少し痛そうにしながらも「いいよ~」と答えた。
けれど、それ以上は近づいてこようとはしなかった。
きっとこれ以上傷つけられないように、僕との距離を取ったのだろう。
「コウモリって、気味が悪いもんね」
そう言ってコウモリは、自分の黒い翼に目を遣って、少し寂しそうに笑った。
「不吉だからって、さっきも村の子どもたちに石を投げつけられたし。……嫌われていることくらい、わかっているんだ」
「いや、気味が悪いなんて思っていないよ。ただ、しゃべったことに驚いただけだ」
そう告げた瞬間、コウモリはハッとしたように手を口元へ当てた。
「あっ……。私がしゃべれること、内緒にしてね。お父様に怒られちゃう」
コウモリは小さな体を縮めるようにして、僕を上目遣いに見た。
――それなら、最初から僕に話しかけなければよかったのに。
どうやらこのコウモリは、少し抜けているらしい。
「わかった。秘密にするよ」
宣誓するように右手を上げてみせると、コウモリは嬉しそうに頷いた。
そして、ぴょこんと地面を蹴ると、頼りない羽ばたきで僕の肩へと戻ってきた。
「じゃあ、おにーさんのところへ案内してあげるね。すごく心配してたよ」
その言葉に、胸の奥がほんのり温かくなる。
心配し、僕を探してくれていた。
その事実が嬉しくて、今すぐ兄の顔を見に帰りたくなった。
「でも、少し遠いから。頑張って歩いてね」
「なんでわかるの?」
「私、耳がいいの。話している内容まではわからないけど、音の反響で、どこにいるのかはわかるんだ」
「ふぅん」
先ほど僕が叩き落としてしまったせいで、コウモリの小さな鼻は赤くなっていた。
それなのに、僕を責めることもなく、親切に案内しようとしてくれている。
その優しさが、胸に引っかかった。
何かお礼をしたくて。
気持ちを形にしたくてポケットを探ったが、何も出てこず、思わず舌打ちしそうになった。
「……ごめん。兄上に会ったら、お礼を渡せるから」
するとコウモリは、不思議そうに首を傾げた。
「そんなのいらないよ。別に、お礼が欲しくて助けたわけじゃないし」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が変な音を立てた。
母は父の機嫌を取りながら高価な宝石をねだり、僕には兄たちに負けない優秀さを求めた。
父と兄たちは、王族である自分たちの立場を支えてくれることを期待していた。
侍従たちも、僕に忠誠を示すことで、将来の出世や王家との繋がりを望んでいた。
誰もが何かを求めて、近づくことが当たり前だと思っていた。
なのに、このコウモリは、何も求めずに僕へ声をかけたのだ。
――ただ僕が困っていると思ったから。
その事実が、信じられないほど不思議だった。
「ねぇ、君は何が好きなの?」
何が欲しいのか。何をしたら喜んでくれるのか。
僕にできることなら、何でもしてあげたかった。
「う~んとね、一番好きなのはブドウ。あと、桃が好き!」
「へぇ、そうなんだ」
「うん、ロイドは?」
まさか、自分の好みを聞かれるとは思わなかった。
何も持たない自分に、興味を持ってくれている。
僕の存在が認められたようで、嬉しくて涙が滲みそうになった。
それから僕たちは、歩きながらたくさん話をした。
好きな食べ物、面白かった本。
大きくなったらやりたいこと、将来の夢。
きっと、かなり長い道のりだったはずだ。
けれど、不思議と疲れは感じなかった。
――このまま帰れなくてもいい。
この時間が、ずっと続けばいいと思ってしまうほど楽しかった。
なのに、不意にコウモリは耳を動かし、暗闇の向こうへ顔を向けた。
「よかったね。おにーさんが、迎えに来たよ」
「え?」
「じゃあね。私、人間に見つかると大変なんだ」
慌てたようにコウモリは翼を震わせ、次の瞬間、夜空へ勢いよく飛び立った。
「待って! ねぇ、待ってよ!」
呼び止めようとして、はっとした。
名前すら聞いていなかった。どこに住んでいるのかはもちろん、次に会う約束さえしていない。
「お願いだから、戻ってきて!」
焦って伸ばした手は届かず、小さな黒い翼は逃げるように夜の闇へ消えていった。
呆然と立ち尽くしていると、その先から馬の蹄の音が響いた。
すぐに騎士たちを伴った長兄が姿を現し、馬を飛び降りると、こちらへ駆け寄って来た。
「ロイド、無事だったんだな。心配して探しまわったんだぞ」
長兄の、どこか気遣うような声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れたように、涙がこぼれ落ちた。
それは、帰る場所があるという安堵だったのか。
それとも、もう二度と会えないかもしれない、小さなコウモリへの悲しみだったのか。
――それから、何度も森へコウモリを探しに行った。
もしかしたら、訪ねて来てくれるんじゃないかと期待を抱き、部屋にはいつもブドウと桃を用意しておいた。図書館中の本を読み漁り、喋るコウモリについて書かれた記録がないか、必死で探した。
だが、手がかりらしいものとしては、王家の歴史書にほんの数行だけ。
昔、人と獣の力を併せ持つ「獣人」と呼ばれる者たちが存在し、その異なる力を恐れた人間たちは、彼らを迫害し、追いやってきたというものだった。
そのとき、心に誓った。
――知識を、武力を、財力を。人を動かす術を学び、そして、大切なものを奪わせないだけの権力を手に入れようと。
ただ、会いたいと願うだけでは、大切なものは守れない。
僕はもう、何もできない王子ではいたくなかった。
「ロイド殿下。ブドウ、食べないんですか?」
呑気そうなリリスの声に顔を上げると、皿の上にはきっちり半分だけ残されたブドウがあった。
「…………いいよ。リリスが食べなよ」
「すごく美味しいですよ。ロイド殿下も、ブドウが一番好きでしょう?」
その言葉に、胸が詰まる。
確かに初めて会ったあの日、僕はそう答えた。
リリスは、僕のことを覚えていてくれたのだろうか。
「リリス」
「はい?」
「必ず大切にするから、僕のそばにいてくれない?」
「…………諜報のお仕事って、難しそうなんですけど。私にできるかなぁ」
困ったように眉を下げて呟くリリスに、思わず苦笑いが漏れる。
どこまでいっても、彼女らしい。
自分のことは無頓着で、少し抜けていて。
僕がどれほど想いを募らせてきたのかなんて、これっぽっちも気づいていない。
そんな鈍感なところさえ、愛おしいと思ってしまう。
「違うよ。そんなことを言っているんじゃない。……僕と、結婚してほしい」
八年前から、好きだった。
誰にも必要されていないと絶望していた僕を見つけてくれたのは、確かに君だった。
何も求めず、ただ笑って手を伸ばしてくれた。
「わ、私、人じゃないんですけど」
「うん、知ってる」
「コウモリに変身するんですよ?」
「別にいいよ。コウモリのリリスも可愛いし、どっちも好きだよ」
驚いたように目を見開いた次の瞬間、リリスの頬は、みるみる朱に染まっていった。
「ねぇ。返事、してくれないの?」
「わ、私は……」
困ったように視線を泳がせ、落ち着きなくもじもじしていたかと思うと――。
ぽんっ。
リリーの姿が、小さなコウモリへと変わった。
「あっ」
そのまま逃げるように羽ばたこうとした小さな体を、そっと両手で包み込んだ。
今の僕なら、もう一度離れていこうとする小さな存在に、手を伸ばすことができる。
「捕まえた」
暴れる様子はない。
ぎゅっと目を瞑ったまま、ぷるぷると小さな体を震わせている。
「好きだよ、リリス。……八年前からずっと」
やっと会えた。
ずっとずっと、君を探していた。
怪我させてごめん、って言いたくて。みつけてくれてありがとう、って伝えたくて。
「きゅう……」
手のひらの中で、小さく可愛らしい鳴き声が漏れた。
気づけばリリスは、翼で顔を隠してしまっている。
その姿があまりにも愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。
「返事は、今すぐじゃなくてもいいよ」
恥ずかしそうに翼で顔を隠すリリスを、そっと胸元へ抱き寄せる。
「でも、ごめんね。きっと嫌だって言われても、もう離してあげられない」
自分でも、一人の人間にこんなに執着するなんておかしいと思う。
だけど、やっと見つけた君をまた失うなんて、僕にはもう耐えられない。
「だけど、これだけは約束する。何があろうと、僕はリリスの味方だ」
人でも、コウモリでも。
誰に恐れられても、誰に拒まれても。世界中の人たちから石を投げられたって、君だけは僕が守る。
そのためなら、自分の命さえ惜しくない。
「だから、お願い」
包んでいた手のひらをゆっくりと開き、震える小さな体へ、祈るように優しく囁いた。
「僕の隣で、笑っていて」
――いくら待っても、返事はなかった。
胸がきつく締めつけられ、もう耐えられないと思った頃、リリスは顔を隠していた翼をそっと横にずらした。
そして、真っ赤になった顔で小さく頷いた。
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