ある日目覚めると、外は真っ暗だった。それから二度と太陽は登らなかった。
ある日目覚めると、外は真っ暗だった。それから二度と太陽は登らなかった。
枕元のスマートフォンを見ると、時刻は午前六時十二分だった。目覚ましはいつものように鳴って、いつものように止めた。なのに、カーテンの隙間から差し込むはずの朝の光が、今日はなかった。
停電かと思った。
私は五十二歳の会社員で、都内の部品メーカーに二十九年勤めている。営業企画課の課長代理という、責任はあるが決定権はあまりない、なんとも半端な立場だ。名前は斉藤 恒一。妻とは三年前に別れ、大学生の娘は元妻と暮らしている。ひとり暮らしの朝は、たいてい静かだ。コーヒーを淹れて、ニュースをつけて、ネクタイを締める。そういう手順で、一日を自分に納得させてきた。
だが、その朝は違った。
リビングの電気をつけると、普通に明るくなった。停電ではない。テレビをつけると、どの局も同じ映像を流していた。暗い街。車のヘッドライト。ざわつくアナウンサーの声。海外の大都市も、どこも同じように夜のままだった。
「原因は現在も不明です」
「世界各地で日の出が確認されていません」
「専門家は——」
専門家の顔が何人も映ったが、誰ひとりまともな説明はできていなかった。天文学者も気象学者も、口をそろえて「前例がない」と言うばかりだった。SNSでは、世界の終わりだとか、巨大な雲だとか、政府の陰謀だとか、笑ってしまうような説が飛び交っていたが、画面の向こうの誰も本気で笑ってはいなかった。
私はとりあえずスーツを着た。会社から連絡が来るだろうと思ったからだ。
案の定、課長からメッセージが入っていた。
『とりあえず通常通り出社。顧客対応優先』
こういうときほど、会社というものは「通常通り」を言いたがる。世界がおかしくなっても、売上の予定表は消えないらしい。
マンションを出ると、空は墨を流したように黒かった。月も星も見えない。ただ黒いだけの天井が、どこまでも広がっている。街灯と看板と自販機の光だけが、かろうじて世界の輪郭をつないでいた。通りを歩く人々はみな無口で、顔色が悪かった。誰もがスマホの画面を覗き込み、誰かと連絡を取り、あるいは何も返ってこない相手に何度も電話をかけていた。
駅は混乱していたが、電車は動いていた。ホームに並ぶ人の列は、葬式の列のように静かだった。車窓に映る自分の顔はやけに老けて見えた。
会社に着くと、フロアは妙に明るかった。蛍光灯が昼の代わりを必死に果たしていた。若い社員たちは興奮と不安が入り混じった顔でしゃべり合い、管理職たちは声を張って落ち着きを演出していた。
「物流が一部止まっています」
「海外工場と連絡が取れません」
「停電対策で自家発電の確認を」
会議室に呼ばれ、私は顧客向けの説明文を作る役目を振られた。「現時点では事業継続に大きな支障はありません」と書けと言われたが、そんなもの誰が信じるのだろうと思った。
昼になっても暗いままだった。
夕方になっても、暗いままだった。
その日、太陽は昇らなかった。
翌日も、その次の日も、太陽は昇らなかった。
最初の一週間、人類はまだ理屈を信じていた。観測機器の異常だとか、大気の未知の変化だとか、太陽光を遮る何かが起きているのだとか。各国首脳が緊急会見を開き、「冷静な行動を」と呼びかけた。スーパーからは食品と電池が消え、ガソリンスタンドには長い列ができた。会社では在宅勤務と出社が日替わりになり、顧客からの問い合わせだけが増え続けた。
一か月が経つ頃には、誰も「一時的」という言葉を口にしなくなった。
植物がまず弱った。街路樹の葉が色を失い、ベランダの鉢植えは溶けるように枯れた。野菜の価格は跳ね上がり、肉も魚も不足し始めた。発電所は動いていても、燃料と物流が追いつかなくなった。電力は配給制になり、夜と昼の区別がないはずなのに、「消灯時間」という言葉だけが妙に現実味を持って迫ってきた。
人は暗闇に弱い。
それを私は、ニュースではなく、会社で知った。
若手の一人が出社しなくなった。明るくて、気が利いて、飲み会では必ず場を回していた男だった。課長は「体調不良らしい」で済ませたが、しばらくして総務から、休職だと伝えられた。別の部署では、窓際の席にいた女性が突然泣き出した。何か失敗したわけではない。ただ、「朝が来ないのが怖い」と言って泣き続けたらしい。
私も、だんだん眠れなくなった。
朝なのか夜なのかわからない。体内時計が壊れていく。起きても疲れが抜けず、眠っても何度も目が覚める。夢の中でだけ太陽が昇り、目が覚めるとまた黒い天井がある。その繰り返しだった。
娘から、珍しく電話が来たのは三か月目だった。
「お父さん、生きてる?」
開口一番それだったので、少し笑ってしまった。
「なんとかね」
「そっちは大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、まあ、なんとか」
娘は元妻と地方に移るかもしれないと言った。都市部より、共同体が残っている土地の方がまだ生きやすいという話だった。私は「そうした方がいい」と答えた。本当は会いたかったが、その言葉は飲み込んだ。こういうときにまで、父親らしい言葉がすぐ出てこない自分が情けなかった。
「お父さんも来ればいいのに」
「会社があるから」
「まだそんなこと言ってるの?」
電話の向こうで、娘がため息をついた。
私は返す言葉がなかった。
会社があるから。
その言葉は、半分は言い訳で、半分は本音だった。会社に行けば、やることがある。やることがあると、人は少しだけ正気でいられる。暗闇のことを忘れられる。だから私は、世界が崩れていく中でも、ネクタイを締め続けていた。
半年後、会社は倒産した。
取引先が次々と消え、工場が止まり、銀行が融資を打ち切った。最後の全体会議で、社長は「断腸の思いです」と言ったが、誰も彼を責めなかった。もう責める気力もなかったのだと思う。退職金がきちんと出るのかも怪しかったが、不思議と腹は立たなかった。長く勤めた場所を失った実感も、すぐには湧かなかった。
会社を出ると、いつもの黒い空があった。
ただ、その日は少しだけ風が強かった。ビルの谷間を抜ける冷たい風に吹かれながら、私は急に、自分が何十年も同じ道を歩いてきたことに気づいた。駅へ向かう道。コンビニ。横断歩道。居酒屋の看板。何もかもが同じなのに、世界だけが終わっていた。
私は駅に向かわず、反対方向へ歩いた。
元妻と娘が昔住んでいた家の近くまで行ってみようと思った。別れてから一度も行っていない。未練があるというより、行く資格がない気がしていたのだ。
街はずいぶん静かになっていた。店は閉まり、信号のいくつかは消えている。道端で焚き火をしている人々がいた。電気のない生活に慣れた者たちの顔は、どこか原始的に見えた。文明は、案外薄い膜だったのかもしれない。
元の家の前には、もう誰も住んでいなかった。ポストはあふれ、庭には枯れ草が積もっていた。私は門の前に立ち尽くし、それから笑ってしまった。来ても仕方のない場所に、ようやく来たのだ。
そのとき、背後で声がした。
「お父さん?」
振り向くと、娘が立っていた。
一瞬、幻かと思った。だが、マフラーに顔を半分埋めてこちらを見る目は、間違いなく娘のものだった。大学生だったはずの彼女は、この暗闇の数か月で少し大人びて見えた。
「なんでここに」
「荷物取りに来たの。お母さんは車で待ってる」
私は何か言おうとして、何も言えなかった。娘は少し笑って、ポケットから懐中電灯を取り出した。
「相変わらず、変なタイミングだね」
「そうだな」
「会社、なくなったんでしょ」
なぜ知っているのかと思ったが、今はそんなことどうでもよかった。娘は近づいてきて、私の顔を見た。
「お父さん、すごく疲れてる」
その言葉が、胸に刺さった。
世界が終わりかけているのだから、疲れていて当たり前だ。誰だって疲れている。なのに、私はその一言で、急に立っていられなくなった。膝が震えた。自分でも驚くほど、涙が出た。
私は暗闇の中で、娘の前で泣いた。
会社がなくなったからじゃない。太陽が消えたからでもない。たぶん、自分がずっと「いつも通り」を守れば何かを失わずに済むと思っていた、その考えがようやく壊れたからだ。
娘は何も言わず、しばらく私の背中をさすっていた。子どもの頃、熱を出した彼女に私がそうしたことがあった気がする。もう遠い記憶だった。
「一緒に来る?」と娘が言った。
「どこへ」
「こっちの自治体で、地下施設を農場に改造してるんだって。人手がいるらしい。お父さん、営業しかできないって顔してるけど、意外と真面目だから役に立つよ」
ずいぶんな言い草だったが、少しだけ笑えた。
「母さんに嫌がられないか」
「今さら?」
それもそうか、と思った。
車の方へ向かって歩き出す娘の背を、私は少し遅れて追いかけた。足元は暗かったが、娘の懐中電灯が地面を照らしていた。細い光だった。太陽みたいに世界全部を照らすことはできない。けれど、一人か二人が歩くには十分だった。
それから何年、太陽が戻らなかったのか、私は正確には覚えていない。
地下の農場では、藻類とキノコと、人工灯で育つ作物を育てた。私は在庫管理や物資の交渉を任され、ときどき若い連中に煙たがられ、ときどき感謝もされた。元妻とはぎこちない距離を保ちながら、娘とは前より少し話すようになった。空は相変わらず黒かったが、人間はその黒に少しずつ住み方を見つけていった。
ある朝——と呼ぶべきかはわからないが——地下施設の外で作業をしていた若者が叫んだ。
「空が!」
人々が外へ駆け出した。
私も出た。
黒い空の、東の端が、ほんのわずかに薄れていた。
最初は見間違いかと思った。だが、その灰色は確かに広がっていた。ゆっくりと、信じがたいほどゆっくりと、闇がほどけていく。誰も声を出せなかった。泣く者も、祈る者も、ただ口を開けて立ち尽くす者もいた。
そして、細い細い光が、地平線の向こうから現れた。
それは昔知っていた朝日に比べれば、あまりにも弱々しかった。けれど、間違いなく太陽の光だった。
私はそのとき、隣に立つ娘の手が震えているのに気づいた。自分の手も震えていた。
「登ったな」と私は言った。
娘は泣き笑いの顔でうなずいた。
「うん。登ったね」
太陽は、世界を一度に元へ戻したりはしなかった。枯れた森も、消えた街も、死んだ人々も、そのままだった。失われた年月は戻らない。けれど、その光は確かに、私たちがまだ終わっていないことだけを教えてくれた。
私はその朝、五十二歳ではなくなっていた。もっと年を取っていたし、もっといろんなものを失っていた。だが不思議と、人生がもう一度始まるような気もしていた。
本当の希望というのは、世界が壊れる前に持つものではないのかもしれない。
全部が暗くなって、それでも誰かの持つ小さな灯りで歩いて、やっと遠くに見つけるものなのだ。
太陽が再び昇るまで、私たちは長い夜を生きた。
そしてたぶん、人間というのは、思っていたよりずっと、しぶとい。




