現実なんてクソ
「夢幻の勇者ナギサ・キサラギ、推してまいる!!」
……次の瞬間、俺は目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、魔王城ではなく、黄ばんだ天井だった。
「……はぁー、やっぱ夢か……って、当たり前か」
布団の中、冷たいシーツに足を絡ませながら、しばらくのあいだ状況を飲み込めなかった。頭の奥ではまだ、夢の続きが残っている気がしていた。
「ああもう、これからいいところだったのに」
声に出すと、胸の奥がひときわ寂しくなった。あれだけ壮大な戦いと冒険の続きを、俺はまたしても夢の中に置いてきてしまったらしい。
壁掛け時計の表示は朝の六時半。外からは古アパートらしい隙間風がスースーと入ってきている。
1DK、駅徒歩13分、築28年。そんな条件な俺の部屋は古いし狭い。が、それなりに清潔にしてある。物は少ない。必要なものしかない。
白銀の鎧も、聖なる剣も、もちろんない。
夢の中の魔王城と、現実の安アパート。その落差に、毎度のことながら苦笑いするしかなかった。
一番の違いは、十代の美少女からアラサーなおっさん部分だけど。
そんなことをぼんやり思っていたら、枕元のスマホが鳴り始めた。
しつこい電子音が、夢と現実の境界をねちねちと擦り続けてくる。
「あーもう、わかったってば……うるせえな」
重い体を横にひねり、スマホに手を伸ばす。スワイプでアプリを止めると、部屋の中がいっそう静かになった。
勇者の気迫も、最終決戦の緊張も、何もかもが嘘みたいに消えて、ここに残ってるのは、薄暗くて寒い六畳間と、アラームの余韻だけ。
目の奥がじんわりと痛むのは、夢を引きずっているせいか、それとも寝不足のせいだろうか?
33歳。独身。職業、会社員。特筆すべきことは何もない、平凡な……いや、むしろどこか半端で、ちょっと負け気味な人生を歩いている俺が、勇者になって魔王と対峙するなんて現実にあるわけない。
あと、美少女勇者とか、TS願望とかない……はず。
「痛つつつつ。腰痛ぇ。なんか30歳越えてから、年々しんどくなるな」
セミシングルのベッドは、マットレスのスプリングがところどころヘタってて、寝起きはだいたい腰が痛い。
ひとまず身体をおこして、身体をゆっくり伸ばす。
床に裸足で降り立つと、目が覚めるような冷たさがふくらはぎを這い上がってきた。
季節は、もう春。カレンダーの上では。けれど、古アパートの朝はまだ冬の名残を手放してくれない。
寝起きの肌に張り付くような朝の空気は鋭くて、布団のぬくもりだけが遠い昔のことのように思えた。
あくびをしながら、まだ薄暗い部屋のなか、いつもと同じ足取りで洗面所へ向かう。蛇口をひねり、水で顔をばしゃ、ばしゃと洗う。冷たさでようやく頭が覚醒してくる。
夢の中で、美女やら美少女やらを堪能している弊害なのだろうか?
鏡に映った本当の自身の姿は、なんかいつもより老けて見えた……
「目の下のクマがひどいな」
夢を見てると熟睡できてないんだっけ?
しっかり眠ったはずなのに、なんとなく疲れが残ってる気がする。
「は、生え際が少し後退してる……気が……」
いや、きっと光の加減だ。
絶対に、そうに違いない。
いつもと変わらない身支度を終わらせる。
少しだけ、少しだけ、寝ぐせの手入れは慎重な作業とあいなった。
『――昨日、新宿ダンジョン第57層にて、日本トップギルド《ヴァルハラ》の最深部踏破が確認されました――』
「へえ、すごいな、前回の踏破っていつだったけ? かなり早くね?」
テレビからニュースを流しつつ、台所で手を動かす。
冷蔵庫から昨夜の残り物を取り出し、ご飯を温めて、インスタント味噌汁を添える。
白と茶色ばかりの朝食。栄養バランスは知らんけど。ちゃんと朝食べてる俺えらい。
「いただきます」
ちゃぶ台に腰を下ろしたところで、ニュースの続きを耳にした。
『――新種の魔石や未確認生物の発見により、今後のダンジョン生態系研究に大きな進展が見込まれています。また、同ギルドは第58層への挑戦準備もすでに開始しており――』
スタジオのコメンテーターが、少し熱を帯びた口調で語る。
「いやあ、すごいですね。二十代でこの偉業。まさに英雄ですよ。子どもたちの憧れになる存在って、こういう人たちのことを言うんでしょうね」
「……はいはい、すごいすごい」
誰に向けるでもない声を漏らしながら、ご飯を口に運ぶ。もぐもぐ。
「これは将来、教科書に載ってもおかしくない活躍ですよね。やっぱり、スキルって人生を変える力な……」
ことさらに振るわれる熱弁を、リモコン手に取って電源ごと切った。
もぐもぐ。
画面が暗くなると、部屋の静けさが少し戻ってくる。
手持無沙汰になり、なんとなくスマホを手に取った。
「げっ!?」
通知欄には、会社のグループチャットが何件か点灯していた。
嫌な予感がして開いてみると、案の定、配送スケジュールの変更と、出荷ミスの連絡が重なって入っていた。
「マジかよー。これ、電車一本早く乗らないと間に合わないやつじゃん」
ご飯をかきこんで、残りの味噌汁を一気に流し込む。
「ごちそうさまっ!!」
急ぎ足でキッチンに食器を戻す。もう余裕ない、帰ってきてから洗う。
俺はあわてて身支度を整えて、急ぎ足で玄関を出た。
「……はあ、はあ、なんとか間に合いそうだ」
駅の手前で少しだけ足を速めたせいで、息が上がっている。
走ったという程でもない。ただ、気持ち早歩きしただけだ。
なのに、肺がすぐに抗議してくるあたり、運動不足っぷりがよくわかる。
別に太ったわけじゃない。腹も、ほんのちょっと、ちょっとだけ出てるだけなのに……ぜんぶアラサーなのが悪い。
到着した駅の構内はすでに朝の慌ただしさに包まれていた。
天井の蛍光灯が白く瞬き、冷たい空気のなかを人波が黙々と流れていく。ベンチにはコーヒー片手にまどろむサラリーマン。自販機の前では、眠そうな顔で缶を取る女子高生。改札機がピッピッと一定のリズムで通過音を鳴らし、そこに足音とアナウンスが重なる。
改札を通ってホームに入る。すでに通勤客が列をなして、ホームは小さなため息の渦みたいになっていた。
駅員のアナウンスが、遠くから何かを注意喚起しているけれど、誰も気に留めていない。ごめん。俺もそのひとりだったわ。
隣に並ぶ学生は、無表情のまま画面をスクロールしていた。前に立つサラリーマンは、軽く眉をひそめながらスケジュールアプリに目を走らせている。
誰もが、ひと足でも先に今日を進めようとしているみたいだった。
つられるように、つい、ポケットからスマホを取り出してしまう。
なんか良くないなあと思いつつも、画面をぼんやり見ていると、電車が滑り込んできた。
普段より一本早い電車なせいか、混雑はしてても、まだピークには達していないらしい。押し込まれることなく、流れに乗ってすんなりと乗車できた。つり革も、ちゃんとつかめる。
こうして、落ち着いて立てるのなんて、久しぶりかもしれない。
そんなことを考えながらふと顔を上げると、目の前に貼られた中吊り広告が目に入った。
今期の春アニメ。ダンジョン探索ものアニメのキービジュアル。
「原作小説、累計三十万部突破!」
「いま、世界が熱狂する“スキル覚醒”バトル!」
「夢に踏み出す、その一歩が運命を変える——!」
そんな言葉たちの下には、流行りの画風で描かれた美少女たちがポーズを決めていた。
銀髪ロングの無表情系魔剣士。狐耳と巫女装束を組み合わせた巫術使い。身の丈の倍はある、重量級の斧を振り回すゴスロリツインテール。
おまけに、全員なぜか絶対領域。
なんかもう、なんでもアリだな。
そう思いながらも、ついつい目を逸らせなかった。
彼女たちの瞳は、確かに“前だけ”を見ていたから。
「きも……」
前の席に座った女子高生たちの、かすかな声が耳に刺さる。
いたたまれなくなって、視線をそっと反対側の窓へ移した。
ガラスの向こう、初春のまだそら寒い朝の空気にぼやけた街並みが、音もなく流れていく。
はあ……現実なんてクソだな。
……俺もかつて探索者だった。




