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向かいの部屋

掲載日:2026/01/17

マンションのエントランスを出て、自動販売機の横を通り過ぎる時、ポケットの中の鍵が金属音を立てた。四月に入ってから、風には湿気が混ざり始めている。

エレベーターで七階まで上がる。このマンションはL字型をしていて、私の部屋がある西向きの棟と、南向きの棟がつながっている。エレベーターを降りると、外廊下がまっすぐに伸びていて、その手すりの向こうには、通りを挟んで別のマンションの背面が見える。

部屋に向かって歩く。コンクリートの床には、ところどころに雨の染みが残っている。歩きながら、いつものように視線を右に向ける。

向かいのマンションは、こちらと同じくらいの高さだ。外壁は薄いグレーのタイル貼りで、等間隔に並んだ窓が、無表情にこちらを向いている。その中で、上から三番目、左から二つ目の窓に目が留まる。

カーテンが閉まっている。ベージュ色の、何の変哲もないカーテンだ。昨日の夜、帰宅した時も閉まっていたし、今朝、ゴミ出しに出た時も閉まっていた。

私は自分の部屋のドアの前で立ち止まり、鍵を差し込んだ。二回回して解錠する。ドアを開けると、閉じ込められていた空気が少し重く感じられた。

靴を脱ぎ、鞄を床に置く。手洗いを済ませてから、冷蔵庫を開けて麦茶のポットを取り出した。グラスに注ぐと、氷がカランと音を立てる。その音は部屋の中に短く響いて、すぐに消えた。

リビングの窓を開ける。網戸越しに、少し離れた幹線道路の車の音が聞こえてくる。タイヤがアスファルトを擦る音。

私はまた、キッチンの小窓から外を見た。この小窓は外廊下側に面していて、磨りガラスのルーバーを回して開けると、向かいのマンションが隙間から見える。

例の窓は、まだカーテンが閉まったままだ。ただ、昨日は真ん中でぴっちりと合わさっていた隙間が、今は数センチほど開いているように見える。そこから暗い室内が見えるわけではない。ガラスが光を反射して、黒く沈んでいるだけだ。

グラスの結露が指先を濡らす。私はそれを拭うこともせず、一口飲んだ。

三日後、会社からの帰りにスーパーに寄った。レジ袋を提げて外廊下を歩く。夜の八時を過ぎていた。

向かいのマンションの窓には、明かりがついている部屋とついていない部屋が不規則に並んでいる。生活のリズムは部屋ごとに違う。

あの窓を見る。明かりはついていない。

手すりに寄りかかり、少しの間、その暗い四角形を眺めた。ベージュのカーテンは開いていた。窓ガラス越しに、白い何かがぼんやりと見えた。棚のようにも見えるし、積み上げられた箱のようにも見える。

後ろを誰かが通り過ぎていった。足音が遠ざかり、角を曲がったあたりでドアの開閉音がした。

部屋に入り、買ってきた惣菜のパックをテーブルに広げた。テレビをつける。ニュース番組のアナウンサーが、明日の天気を淡々と告げている。西から前線が近づいているらしい。

箸を動かしながら、ぼんやりと視線を壁のカレンダーに移す。四月の予定はまだあまり書き込まれていない。来週の土曜日に、歯科検診の予約が入っているだけだ。

翌朝、外廊下に出ると、予報通り小雨が降っていた。傘を開く。

向かいの窓を見る。カーテンは全開になっていた。ガラスの内側に、白いビニール紐で縛られた雑誌の束が見えた。三束、四束、積み上げられている。

その横に、人の背丈ほどの観葉植物があった。葉が大きく広がっている。種類はわからない。昨日の夜は見えなかったものだ。

私は視線を戻し、エレベーターのボタンを押した。

週末、友人の佐々木と駅前のカフェで会った。

佐々木はアイスコーヒーのストローを指先で回しながら、最近変えたスマートフォンのプランについて話していた。

「結局、ギガが足りなくなるんだよね。動画とか見ないようにしてるんだけど」

「外で見るからじゃない?」

「そうなんだけど、電車の中って暇でしょ。つい見ちゃう」

私は手元のチーズケーキをフォークで切った。断面から細かな欠片が皿に落ちる。

「そういえば、引っ越し考えてるって言ってなかった?」と佐々木が聞いた。

「うん、更新が来年だから。まだ先だけど」

「今のところ、便利なんでしょ?」

「駅からは近いから。でも、大通りが近いから埃っぽい気がする」

「ああ、排気ガスとかね」

佐々木は窓の外を見た。駅前のロータリーにはタクシーが列を作っている。

「どこの街も似たようなもんだよ」と佐々木は言った。

一時間ほど話して、店を出た。私たちは駅の改札で別れた。佐々木の背中が雑踏に混じって見えなくなるまで、私はその場に立っていた。改札の電子音が絶え間なく鳴り響いていた。

マンションに戻ったのは夕方だった。西日が外廊下に長く影を落としている。

向かいの窓の様子が変わっていた。

窓が開いていた。網戸も右側に寄せられている。そして、窓枠のところに、青いシャツを着た男が立っていた。

男は背中を向けていた。何か作業をしているようだった。腕が動くたびに、青い布地にしわが寄る。彼は窓枠の上部、カーテンレールのあるあたりに手を伸ばしていた。

私は立ち止まらず、そのまま歩いた。自分の部屋の前まで来て、鍵を取り出しながら、もう一度振り返った。

男はいなくなっていた。窓は開いたままだ。風が吹き込み、新しい白いレースのカーテンが、部屋の外に吸い出されるようにふわりと膨らんだ。カーテンの裾が、外壁のタイルを撫でる。

その動きは、水の中で揺れる海藻のように見えた。

部屋に入り、買ってきた雑誌をソファに置く。窓を開けると、向かいの棟から子供の声が聞こえてきた。何を言っているかは聞き取れないが、高い声が反響している。

私はベランダに出た。洗濯物を取り込む。タオルの乾いた匂いがした。

ベランダの手すり越しに、街を見下ろす。ビルの隙間から、遠くのタワークレーンが見える。あのクレーンは半年ほど前からあそこにあって、少しずつ建物の高さを上げている。

向かいの部屋の男が何をしていたのか、私は考えなかった。ただ、新しいカーテンがついたという事実だけがそこにあった。

翌日、風が強かった。

夜、帰宅すると、向かいの窓の白いレースカーテンが、激しく揺れていた。窓は閉められていなかった。

部屋の中には明かりがついていた。蛍光灯の白い光だ。その光の中で、カーテンが暴れている。部屋の中に誰かがいる気配はなかった。家具のようなものも見えない。ただ、白い壁と、茶色のフローリングの床が、風に煽られるカーテンの隙間から断片的に見えた。

私はしばらくそれを見ていた。風が外廊下を吹き抜け、私の髪を乱した。

もしかすると、閉め忘れたのかもしれない。あるいは、換気をしている最中なのかもしれない。

私は部屋に入り、自分の部屋の窓を閉めた。クレセント錠を回してロックする。外の風の音は、少し遠くなった。

シャワーを浴びて出てくると、髪を乾かしながらテレビをつけた。深夜のバラエティ番組が流れている。画面の中の人々は、大きな身振りで笑っていた。

ドライヤーの音を止める。静寂が戻る。

ふと、向かいの窓のことを思い出し、キッチンの小窓のルーバーを回した。

明かりは消えていた。窓が閉まっているかどうかは、暗くてよくわからなかった。ガラスに街灯のオレンジ色が映り込んでいるだけだった。

五月になった。

連休の初日、私はベランダの掃除をした。バケツに水を汲み、デッキブラシで床を擦る。黒ずんだ汚れが水に溶け出し、排水溝へと流れていく。

一休みして、缶コーヒーを開けた。手すりに肘をついて、いつものように向かいのマンションを見る。

あの窓のベランダに、布団が干されていた。青地に白い花柄のカバーがかかっている。ふっくらとした厚みのある布団だ。

窓は大きく開け放たれている。中から、掃除機の音が微かに聞こえてくるような気がした。

外廊下を、宅配便の台車がガラガラと音を立てて通っていく。

「こんにちは」

すれ違いざまに配達員の男性が声をかけてきた。帽子を目深に被っている。

「こんにちは」

私は短く返した。

部屋に戻り、コーヒーの空き缶を洗って乾かした。

午後、本を読んでいると、インターホンが鳴った。モニターを見ると、点検業者の作業服を着た男が映っている。

「消防設備の点検です」

ドアを開ける。中年の男性が二人、手際よく入ってきて、天井の感知器に長い棒をあてがった。

「異常なしです」

数分で作業は終わった。彼らは伝票にサインを求め、また次の部屋へと去っていった。ドアが閉まると、部屋の中は再び私ひとりになった。

感知器の赤いランプが、一瞬だけ点滅したような気がして見上げたが、今は消えている。

夕方、買い物に出ようとして外廊下に出た。

向かいの窓の布団は取り込まれていた。窓は閉まり、ベージュ色のカーテンが引かれている。

以前のベージュ色とは、少し色味が違う気がした。もっと明るい、クリーム色に近いベージュだ。あるいは、西日の加減でそう見えるだけかもしれない。

私はその窓から視線を外し、エレベーターホールの方を見た。エレベーターを待つ間、足元のタイル目地を見つめる。ここにも、小さな雑草が生えている。コンクリートのわずかな隙間に根を張り、双葉を広げている。

エレベーターが到着する音がした。扉が開く。中は無人だった。

乗り込んで、一階のボタンを押す。扉が閉まる瞬間、隙間から外の景色が細く切り取られた。向かいのマンションの壁、無数の窓、そして空の色。

それらは扉が完全に閉まると同時に遮断され、私は箱の中に閉じ込められた。重力がわずかに足の裏にかかる。

一階に着き、外に出ると、風はもう冷たくなかった。

通りを歩きながら、私は一度だけ振り返ってマンションを見上げた。自分の部屋の窓がどこにあるかを探す。七階の、右から四番目。

その向かいにあるはずの部屋の窓は、ここからでは角度があって見えない。

信号が青に変わり、横断歩道を渡る。

多くの人が私とすれ違っていく。それぞれの方向へ、それぞれの速度で歩いていく。

スーパーの入り口で、買い物かごを手に取った。今日は野菜を買おうと思った。キャベツと、それからトマト。

店内には明るい音楽が流れていた。私は野菜売り場の照明の下で、トマトの赤色をじっと見つめた。

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