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ベッカライウグイス⑪ 夏紅葉と水琴窟

来春さんと呼ばれるようになった私。

そして、ベッカライウグイスの面々が、私の苗字に気がつく時……!

シューさんは、リスさんのご紹介で、念願の和菓子店を訪れ、悶絶。

 私が心待ちにしていた日が訪れた。

 弘子さんのご来店である。弘子さんは、夏風邪に取り憑かれ、一週間ほどベッカライウグイスへ姿を見せていなかった。弘子さん風邪でダウン、の情報はすぐにベッカライウグイスに届き、みんなで心配したが、みずほさんとさくらさんがあれこれ届けたり、様子を伺ったりしていたので、それ以上気を回すのはかえって迷惑かと思い、私たちは弘子さんの回復と元気になっての来店を願うだけにした。


 カランコロン

 「こんにちはー」

 「弘子さん!!」

 一週間ぶりの弘子さんに、リスさんと私はショーケースの中から伸び上がって歓迎した。

 「大丈夫?」

 リスさんが心配そうに弘子さんを窺う。

 「うん、大丈夫大丈夫。みずほさんが、みんな心配してるって言ってたわ。ごめんね、心配掛けて」

 「いいんです」

 私は、言った。

 「たくさん、心配掛けてください!」

 「あ、忘れないでね、今の言葉」

 弘子さんは笑って、真っ直ぐ頬に掛った髪を耳の後ろに掛けると、ショーケースのパンを選び出した。

 「もう、お腹減っちゃった~。今日からボランティアに出たから。あれ、みっちゃん、今日はまだなの?」

 弘子さんが見やったカウンターは、今日はまだ空っぽである。

 リスさんは、くすくすと笑った。

 「そろそろ来ると思いますよー。カレーパンの匂いに、釣られやすいから」

 弘子さんは、にっこり笑った。

 「あ、じゃあ、私もカレーパンにするわ!それと……白あんのをお願いします」

 白あんぱんは、弘子さんのお気に入りである。

 「少しお待ちください」

 私は、後ろのカウンターでコーヒーを淹れ始め、リスさんはご機嫌で、足取りも軽く工場へカレーパンの様子を見に行った。

 


 店内には、弘子さんと私だけが残された。

 私は、弘子さんに淹れたてのコーヒーと、白あんのパンのお皿が載ったトレイを運んだ。

 私が、待っていたのは、このときだった。リスさんが戻ってこないうちに、と手早く話した。

 「弘子さん、実は、お話があって……」

 弘子さんは、コーヒーを一口啜ると

 「ん?なに、なに?」

 私を見上げた。

 「リスさんのことで。赤間さんから聞いたんですけれど、リスさんのことを聞いて回ってる不審者がいるって」

 あら、という顔で弘子さんは微笑んだ。一つの脅威も感じていない微笑みである。

 「それが……リスさんのパン教室があったじゃないですか。そのときのお父さんが、この前リスさんを訪ねてきたんです」

 ふむふむ。弘子さんが、二度頷いて言った。

 「同一人物、ってこと?」

 私はかぶりを振った。

 「それは、分からないんですけれど、そのお父さんっていう人が、少し、なんていうか……素っ頓狂?なひとで、娘さんが二人いて……でも、この前、お店に……いえ、お店の庭に訪ねてきたんです」

 弘子さんは、斜め上に目線を泳がせてから、窓の外の庭を見た。そして、「そこ?」というふうに、指を差す。私は、「そこです」と頷く。

 「リスちゃん、庭にいたのね」

 「いいえ。私がいたんです……」

 弘子さんは、コーヒーを啜る。

 「私に、リスさんのことを聞くんです。私が不審な目で見たら、慌てて『パンを買いに来た』って言って……」

 ふぅむ。という顔を弘子さんはする。

 「それで、パンを買って帰った、と?」

 私は、首を振った。

 「いいえ。お店に駆け込んだ私に、閉め出されて、忽然と姿を消したんです」

 あらまあ、と言いたげな弘子さんは、笑顔でコーヒーを飲んだ。

 なぜ、弘子さんは、笑顔なのだろう。

 「ま、三多さん、みっちゃんに言わずに私を選んで言ったのは、正解だったわね。みっちゃんが聞いたら、第二次結婚会議を開いちゃうから」


 そこへ、リスさんが工場から焼きたてを持って戻ってきた。

 「弘子さーん、カレーパン焼きたてですよー」


 カランコロン

 「こんにちは!」

 みっちゃん、恐るべし。

 「いらっしゃいませ!」

 リスさんと私は、みっちゃんを迎え、カレーパンをお出しした。


 「そういえば、私が風邪で来なかった一週間の間に、三多さんが来春こはるさんって呼ばれるようになたって、ベッカライニュースが流れてきたわ」

 弘子さんが、ショーケースの奥の私に言った。

 私は、

 「ふふふ」

 と笑いながら、みっちゃんにコーヒーを届けた。

 「いいことだね。本来、三多さんじゃなかったからね」

 みっちゃんは言った。

 「え?」

 「ね、来春さん?」

 みっちゃんがそう言って私を見るので、私は白状せざるを得なかった。

 「あの……実は……私の名字なんですが、本当はサンタって読むんです」

 「えーっ?!」

 いつの間にか近くにきていたリスさんが大きな声を上げた。

 リスさんがこんなに驚くのを私ははじめて見た。いつも冷静な弘子さんも、あっけにとられている。

 「すみません……黙っていて」

 私が言うと、みっちゃんが

 「来春さんが謝ることないよ。履歴書に、ちゃんとふりがなふってあったでしょ?」

 と弘子さんを見た。

 「一緒に面接したよ?」

 「……気づかなかった……。ごめんなさいね、今まで、み、みじゃなくて、サンタさん」

 「そんな、いいんです。はっきり言わなかった私が悪いんです。子どもの頃から、名字のことでからかわれたりしてきたので、みたさん、って呼ばれて、それもいいかなって思ってしまって。でも、すっきりしました。白日のもとに、サンタです」

 私は、胸を張って見せた。

 「これは、ニュースだわ……。さくらさん仰天するわよ」

 弘子さんはそう言って、スマートフォンをとると、ベッカライウグイスニュースを流し始めた。

 リスさんは、ご機嫌だった。

 「すごいわー。ここは、一年中サンタさんがいるのね!」

 

 

 ベッカライウグイスの定休日は、水曜と木曜であった。

 水曜の朝、リビングへ行くと、奥のキッチンでシューさんが何かをリスさんにおねだりしているのが聞こえた。

 「リスゥ、いいでしょ?」

 「シューさん、一人で行けるじゃないですか?地下鉄の出口からすぐだし、わかりやすい場所にあるから」

 「えー、リスも一緒に行きましょう!」

 それからシューさんは

 「来春も、一緒に行きましょう!」

 ぐるんと振り返って、今しもソファに腰掛けようとしていた私を見た。

 「え、どこへですか?」

 「和菓子屋さん!ぼく、そのために今日お休みをとったの。前からリスにお願いしていたんだよ?それが、なかなかいい返事をしてくれない」

 私は、笑いながら言った。

 「リスさん、別の用事があるんじゃありませんか?」

 「ない」

 シューさんは、即、断言した。その下唇を突き出した様子に、私は笑った。

 「ベッカライウグイスに、餡子を持ってきてくれてる和菓子屋さんなの。ホームページで見て、もう全体が素晴らしくて、日本の家屋、建築、お菓子、綺麗!リスは、取引先だから、僕がひとりぼっちより、一緒に行って紹介して欲しいのです!」

 うーん。シューさんの言うことはもっとものようである。リスさんには珍しい対応だな、と私はリスさんを窺った。

 「……分かったわ……知り合いだから、嫌だったのに……」

 仕方がないと、リスさんは、眉を寄せて諦めた。

 その途端に、シューさんは目を輝かせ、その目を私に向けた。

 「もちろん、来春もね!!行きますよ!」 

 


 そうして、私たちは、朝食を終え、それぞれ準備をすると、仲良く地下鉄で出掛けた。



 ベッカライウグイスは、あんパンを3種類作っているが、餡子はリスさん制作のものではない。一週間に一度、作りたての餡子を運んできてくれる人がいるのだ。

 その餡子を作っているのが、これから向かう和菓子店である。

 その界隈では有名なお店で、私は、引っ越してくる前から名前だけは知っていた。

 「水琴みなこと庵」という、創業150年を超える和菓子屋さんである。明治時代からの庭園と戦前の日本家屋を維持しながら、奥の座敷ではお茶とお菓子のお振る舞いをいただくことができる。手入れをしながらの維持なので、昔とはずいぶん規模も縮小されているというが、それでも磨き上げられた廊下や柱、伝統的な和室の造りはとても貴重で、海外で紹介されてもいた。だが、水琴庵は予約制で、多くはお茶席などの注文やお使い物の注文で成り立っているという。だから、シューさんは、リスさんのつてを利用するのが最も確実だったのだ。

 水琴庵には、まだ特筆すべきことがあった。売られている菓子の芸術性もそうだが、珍しい、その屋号のいわれともなっている、水琴窟があるという。私は、その音を聞いてみたいと思っていた。


 そんな有名なお店の餡子が、なぜベッカライウグイスに卸されているのか、謎とも言えた。

 私は、週に一度、いつも同じ配達の人が届けてくれる、その餡子に掛けられた手ぬぐいに「水琴庵」の大きな文字を見たときに、震えた覚えがある。そんなにすごいお店の餡子を使っているなんて……。聞けば、パン屋さんで水琴庵の餡子を使っているのは、ベッカライウグイスだけだという。それはベッカライウグイスのために作られた餡子であるともいえた。

 

 水琴庵の餡子は、上品に美しかった。餡子の色が、格別に美しいのである。小豆餡は、艶やかなばかりではなく、どこか紫がかって透明でいて、深みのあるなんとも言えない色合いなのだ。白あんやうぐいすあんも、誰もが出せる味わいではなかった。手に持つとずっしりとしていて、どれもがほのかな甘みの、風味を味わう者を満たす餡子なのだった。


 リスさんは、この三色のあんパンを作るときには、その生地の配合にことのほか気を遣っていた。

 普通、あんパンは、ブリオッシュ生地などのリッチなバターの配合で作られている。皮は色濃く焼け、バターが香る。

 しかし、ベッカライウグイスのあんパンは違っていた。リーンな生地というわけではないが、香りの少ない非発酵のバターを取り寄せ、かつできるだけその配合を減らしていた。イーストも、このあんパンの時だけに遣う、香りのほとんどしないタイプを使っている。

 あんパンの生地は、もちっとした伸びがある、ごく薄い仕上がりになる。焼き色も浅い。

 そこまでして、水琴庵の餡子を大事にパンに使っているのであった。



 水曜日の地下鉄は、閑散としてひともまばらだった。私たちは、三人ならんで腰掛け、同じ振動に揺られた。

 涼しい静けさに支配された駅に降り、私たちは長い階段を上って地上に出た。

 瑞々しい、街路樹の影は、水琴庵まで真っ直ぐに続いていた。


 

 「ここです!」

 水琴庵と書かれた、古い暖簾がはためく門と対面し、シューさんは感慨深げだった。

 「僕が、行きます」

 先導してくれるらしいので、お任せした。

 古い木の引き戸は、その端に塩が盛られ、入る者を選別しているかに厳めしかった。だが、引き戸は、滑らかに引かれた。

 「おぉ」

 シューさんが、それに感嘆する。

 リスさんと私は、来られてよかったね、と心の中でシューさんに呼びかけ、シューさんにそれが届いたのか、突然、私たちを見て深く頷いた。


 門戸から、お店の入り口までは、濡れた飛び石が打たれ、摩耗した石の周りは所々が緑苔で覆われていた。

 空気が、香しかった。さわさわと、したたるような緑の紅葉や、花の終わったさつきが薫る呼吸をしている。

 リスさんは、最後に入ると、引き戸を静かに閉めた。すると私たちは、隔絶された空間に立った。

 シューさんは、じっと辺りを見回して、目を閉じ深呼吸をした。再び開かれた青い瞳は、かすかに潤んで見えた。


 しばらくして、リスさんは黙って私たちを、湿った飛び石の流れに先導していった。それは、敷石の前で終わる。

 リスさんは、再び現われた水琴庵の暖簾を手の甲で上げると、蜜蝋のような色のガラスに張り巡らされた格子の戸を左へ引いた。

 

 「こんにちは」

 奥へ上がったリスさんに続き、私は最後に入ってその格子戸を静かに閉めた。


 足下は、音のない雨が降り籠めたようだった。

 大きく削られた石や小さな石が敷き詰められ、それらはしっとりと湿り、煙り立つような湿気に支配された空間だった。どこか薄暗く、冷たい。

 灯りは、まるで昔の夜の街灯のようで、ガラスの傘を被って遠慮がちに反射していた。


 奥から小さな音が聞こえたかと思うと、出入り口に掛けられている大きな暖簾をくぐって、和服の女性が現われた。紺色の絣である。

 「いらっしゃいませ」

 和服の上には、簡素だが端正にあつらえられた白い上衣を身につけていた。

 その女性は、こちらを見るなり、

 「あら、リスちゃん!久しぶり!」

 と顔をほころばせた。綺麗な目尻に、皺が滲んだ。

 「千春おばさん、こんにちは。いつも餡子をありがとうございます」

 リスさんは、丁寧に礼をした。

 「いいのよ、リスちゃん、元気だった?あら?そちらは」

 リスさんは、シューさんと私を紹介した。

 「こちらは、ドイツからいらしているシュバムボルンさんと、ベッカライウグイスの三多来春さんです。こちらは、水琴庵の女将さんで、千春さんです」

 私たちは、頭を下げた。

 「あら、来春さんっておっしゃるの?なんだか、親近感がわくわぁ」

 と女将さんは嬉しげに仰ってくださった。

 「私、リスちゃんのお母さんと、産院で一緒でね、ふふふ。一日違いで子どもを産んでからの友達なのよ」

 そう説明され、なるほど、と理解した。

 「ちょっと!智翠(ともあき)!リスちゃんが来てるわよ、智翠!」

 千春さんは、大きな暖簾の奥へ呼ばわった。

 すると、中から、いつもベッカライウグイスへ餡子を運んでくる青年が姿を現した。

 「こんにちは、いらっしゃい」

 いつもは額を隠していた髪を、今日はきりりと調理帽に納め、白い作務衣に身を包んでいた。

 「こんにちは」

 女将さんの千春さんは、さあさあ、とリスさんと智翠さんを引き寄せると、お店の壁に掛けられている、屋号の看板の下に二人を立たせた。いそいそと、奥からカメラを持ってくると、

 「はい、撮りまーす。はい、チーズ」

 撮影を始めたのだった。

 リスさんと智翠さんは、なんともいえない表情でお互い顔を見合わせてから、なんともいえない笑顔をカメラに向けて、千春さんの撮影が終わるのを待った。

 10枚ほど取り終えて、千春さんは、ほぉっと息をつき

 「ありがとう!久しぶりにリスちゃんが来てくれて嬉しいわ!」

 心ゆくまで撮影したのか、カメラをお店の奥へ置きに行った。リスさんが、ここへ来るのを渋った理由が分かった気がした。


 「じゃ、俺は、裏で仕事があるから」

 智翠さんは、リスさんにそう言い、私たちには

 「ゆっくりしていってください」

 と頭を下げて、厨房へ帰っていった。

 入れ替わりに、千春さんが戻ってきた。

 「ふふふ。久しぶりにコレクションが増えたわー」

 と笑顔である。

 「千春さんはね、私たちが生まれたときから、今の今まで、この『水琴庵』の看板の下での写真を撮り続けてるの。私たちの成長の記録としてね。そのうち、老いの記録になっちゃうかもね」

 リスさんは、説明した。

 「久しぶりでも、リスちゃん、ちゃんと半年に一度は来てくれるから、もうコレクションも充実してるのよ」

 千春さんは、私たちにそう言うと、奥のお座敷へと誘った。

 「今日は、お友達のために来てくれたのでしょ?」

 「そうなんだけど……」

 「じゃ、上がっていってください。どうぞ」

 と、珍しく黙りこくっているシューさんと、ショーウインドーに飾られたお菓子を観察している私を招いた。


 どこに働いている人がいるのかも分からない静まりかえった中を、私たちは女将さんについて行った。

 お店の奥の上がりかまちで靴を脱ぎ、ガラス戸の開け放たれた長い廊下を進んでいく。古い灯りが吊り下げられた下を進んでいくと、緑したたる日本庭園が、やがて右手に広がって見えた。青々と潤んだ芝生の上には飛び石が続いている。職人の手による松が、赤みがかった石との対比に、調和された人工的な美しさを根付かせている。

 竹垣に囲われた庭は、昔あったどこかのいおりに佇んだ者の寂寞を連れてきた。その寂しさは、水の流れるごく小さな音に、自然、耳を傾けさせた。

 耳を、すます。

 すると、断続的に、水と金属が奏でる、かすかに歪んだ反響が聞こえてきた。ひとつ。…………ふたつ…………。

 私は、手水鉢の横で、立ち止まった。

 女将さんは、それに気づいたようで、私とシューさんのところへやってきた。

 「これが、『水琴窟』です」

 そう言うと、私たちが鑑賞する間、静かに待っていてくれた。

 シューさんは、瞑った目蓋を震わせながら、その音を聞いていた。


 私たちは、リスさんのおかげで、歓待を受けた。


 「リスちゃんセット、持ってきてちょうだい」

 女将さんは、従業員さんを呼んで言づて、従業員さんは、お座敷まで小さな箱を運んできた。

 リスさんは、慣れた様子でその箱を受け取り、中から綺麗な織物を出した。

 「これはね、帛紗ばさみって言って、中に扇子と懐紙とかが入っているの。私が幼稚園の時から使わせてもらってるのよ」

 そう言うと、リスさんは薄い色の模様を透かした懐紙を中から出して、シューさんと私に分けてくれた。

 シューさんは、それをじっと見ている。

 「日に透かしてみて。雪月花っていって、日本の伝統的な模様なのよ」

 リスさんに言われて、シューさんは廊下側を向き、弱い光にそれを透かした。淡い水色や桃色黄色の模様が透けて見える。

 「……綺麗だ」

 シューさんは、自分の手にすっかり収まってしまうくらいの紙に、圧倒されたようにその言葉を口にした。


 「失礼します。本日のお菓子です」

 智翠さんが襖を開けて、膝を付いたまま、すすっと中まで進んできた。手にお菓子器を戴いている。

 それを、私たちの前に静かに置いた。

 「どうぞ」

 「頂戴します」

 リスさんは、畳の上に両手をついて頭を下げた。それから、お菓子器を押し頂き、シューさんの前にそれを置いて見せた。

 「ほぉっ」

 シューさんは、思わず声を漏らした長い溜息をついて、中の小さなお菓子に見蕩れた。

 朝顔、夏紅葉、海。そのどれもが儚い色合いを湛え、幼気(いたいけ)にさえ見える。

 「シューさんは、どれがいいです?」

 何気なく聞いたリスさんに、シューさんは顔を凍り付かせた。

 「どれって?」

 「どれが食べたいですか?」

 「……食べる……」

 そして思いっきり首を振った。

 「食べられません!」

 え……。食べに来たかったんじゃ……。

 私たちは、顔を見合わせた。

 「無理、こんな綺麗なのは、食べ物じゃない!」

 震えるシューさんに、千春さんは笑って言った。

 「ふふふ。リスちゃんのお友達ですから、特別にたくさんお土産をお持たせして差し上げますからね、大丈夫よ、召し上がってみて」

 シューさんは、小鳥のようにお礼を呟き、女将さんを上目遣いで見る。人たらしである。

 「よかったわね、じゃ、どれにする?」

 「ううん……」

 長い逡巡の末、シューさんは夏紅葉を選んだ。

 「ここに来るとき、綺麗だったから」

 リスさんから貰った懐紙に、長い竹箸を器用に使って載せた。千春さんが、菓子切りをそっと近くにおいてくれる。

 「パパとママも連れてきてあげたい……」

 感動にむせび、なかなか食べられないシューさんを横目に、私は海を、リスさんは朝顔のお菓子を、それぞれ選んだ。

 色合いは美しいが、これらは華やかなお菓子ではない。そこはかとない慎ましさ、奥ゆかしい美が透徹されているのだ。

 海は、砂を載せた白あんを包んで、浅い水色のぼかされた寒天が波を描く。それだけの美に、水琴庵は、培い受け継がれてきたもののすべてを掛けていた。

 私はそれを頂戴し、シューさんは、そっと口に運んだ。


 こんな、しんとした、個々の心の中だけの落ち着いた時間の後にそんなときが訪れようとは、リスさんも私も思わなかった。

 千春さんは、釜に汲まれた湯で、お茶を点てていた。

 「どうぞ」

 青竹が描かれたつるりとした抹茶碗を置かれたシューさんが、それを大きな手に持った。

 勢いよく、飲む。

 「ぐ……がはっ……」

 「これは……っ」

 何かに本気の目だ。

 千春さんとリスさんと私は、シューさんを見つめた。

 雷に打たれたかのように、シューさんは正座したままくずおれた。

 「にがいっ」

 肩で息を吐きだした。

 「あらあら。たまに、そういう外国の人がいますからね」

 女将さんは、シューさんの後ろへやってくると、大きな背中に手を当ててさすってやった。

 リスさんは、立ち上がって襖の奥へ行き、コップに水を持ってきた。

 「大丈夫?」

 シューさんに差し出すと、シューさんは、水を受け取らない。試練を耐え抜きたい様子である。私は、心の中でシューさんにエールを送りつつも、笑ってしまいそうでそれを堪えた。

 「……でも、シューさん、先に甘いお菓子を食べたから、そうでもないと思うんだけど……」

 「ダメ、絶対、ちがう!」

 何が……。

 私は、もはや堪えきれなくなった笑いで顔を歪めながら聞いた。

 「なにが、ちがうの?」

 シューさんは、親の敵を見るような目で私を見ると、ひとこと言った。

 「おちゃ」

 私たちは、爆笑した。



 笑ってしまったお詫びに、シューさんたくさんのお土産を持たされ、すっかりご機嫌になって水琴庵をあとにしたのであった。     

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