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第二章11 『彼女の離反』

 ――その少女に、ファンドーリン公爵家やこの領地のために奔走する義務はない。

 前提として政治家であるから、むしろ彼女は自分の領地の利益のために全神経を傾けるべきである。

 好き嫌いやしたいしたくない、などという感情論で動くことはできない。


 アレクセイ・ファンドーリンは当然そのことを分かっていた。

 だけれど。


「僕は……僕は信じたくありません……」


 新聞を握る手が、ぷるぷると震えている。潤んだ瞳から液体が零れないようにするのに必死で、体の震えには構っていられない。

 それでも、新聞に仰々しく書かれたその文字列を信じられなかった。

 彼女がホーネット公爵と手を結び、ファンドーリン公爵家への封鎖と孤立化を推し進めているなんてことは。


 もちろん、言葉でそうと明言されているわけではない。そして、一度セリーナの暴挙で被害を被ったカレリナ公爵家が取る手段として政治的には何らおかしくはないかもしれない。

 だがいつだったかその少女が言っていたように、両公爵家の交わりは初めから利益だけに重きを置かれているのではなかったのだ。

 心を交わしたから。真摯な言葉を伝えあったから。少なくともアレクセイはそうだったと思っていたから。


 リチャードとアデリナの関係、そして両公爵家の関係の両方を指して書かれた「蜜月」という文字を、どう捉えたらいいのか分からないのだ。


「貴女は僕たちを……排除することを選んだのですか?」


 セリーナが厄介すぎる敵であったと判明したため、広範囲に切除を行う決策をしたのか。世界に仇為す存在を完璧に消し去るために、多少の犠牲に目を瞑ることにしたのか。

 ――それとも、その別の男を見る艶やかな目は、本気なのか。


「――兄上」


 ふと、寡黙な兄の顔が脳裏に蘇る。

 黒魔術が嗜虐するこの空間で、鈍感を張り付けて身を守ってきた自分たちの凍り付いた感情は、もうとっくに揺り動かされていて。

 その少女の離反の目的が何であれ、このひび割れを起こした場所で起こると予測される変化が、アレクセイには恐ろしかった。



 ――実のところ、黒魔術は相手の心に眠る歪んだ部分を増幅させる性質である。

 具体例で言えば、全く欲しくないものを欲しいと思わせる、ということはできず、ぼんやり欲しいと思っていたものを何を犠牲にしてでも欲しがるようにする、というような精神の歪め方なのだ。

 だから、歪み方は人それぞれ。しかし間違いないのは、それがその人の深層心理に大きく関わっているということだ。

 誰しも一定の負の感情を持っている。黒魔術はそれを極限まで膨張させる。


 精神力のおかげでその苦しみに耐え、正気を保つことが出来ていたとしても。

 その黒魔術の影響下から逃れない限り、ひょんとしたことがその人を墜落させることがある。例えば、深層心理を刺激するような何かがあった場合。

 それでも、すぐに壊れない人間は存在する。

 だが、間違いないのはその後黒魔術が格段に効きやすくなるということだ。これは、当然悪循環に繋がっていく。

 黒魔術が完全に精神を侵食した後は、ただの術者の操り人形になる。


 ゆっくり、ゆっくりと。

 一滴ずつ絵の具を垂らすように。しかし水面に絵の具の色が広がっていくように。

 歪んでいく。崩れていく。狂っていく。堕ちていく。


 ――蘇る。蘇る。

 三年前の惨劇が絶え間なく蘇る。

 ――囁いている。囁いている。

 地獄からの声が禍々しく囁いている。


「リチャード・ホーネット……君はやはり僕を殺すつもりだったんだな」


 三年前。

 ヴィクトル・ファンドーリンという存在をこの世界から抹消する方法を企て、実行し、成功させたその男は、実のところ社会的抹殺を最終目標としていなかっただろうと分かっていた。

 利益を追求する利己主義者と真理を追究する理想主義者は、両者同時に存在しているだけで絶大な矛盾を産む。

 いつかはこの矛盾が何らかの方式で『解消』されるのだと、理解していた。


 だがリチャードが取った方法の数々は、どれもヴィクトルには理解のできないものばかりであった。

 命以外の全てを奪われるということがどういうことなのか、理解した時には遅かった。そして彼の内に眠る激情と同等の殺意に気づいたところで、何の意味もないと断定したのだ。


 ――それは恐らく、愚かな選択肢だったのだろう。


 そう結論付けるのと同時に、ヴィクトルが無意識に握りしめていたペンが半ばから固い音を立ててへし折れた。

 インクがじわじわと滲み出て、ゆっくりと机を黒く染め上げていく。

 地獄から溢れる狂気が、一歩一歩追い詰めるかのように心を染め上げているようで。


「――君は彼を選ぶのか?」


 機械のような無機質な声は、まるで過去の自分かのようだ。

 だがその底に滲む隠しきれない狂気が、あの頃とはまるで違うのだと主張している。


 愛していると、少女は語った。

 権利があると、少女は言った。

 自分を愛せと、少女は説いた。

 その目で。目に映る全てを溶かすかのような熱量を孕む目で。その輝きで。何もかもが目を奪われる太陽の如き輝きで。


 彼女がリチャードと手を結んで自分を殺しに来る可能性、が、頭をよぎってこびりついて離れない。

 様々な顔と声をした裏切りと離反を、ヴィクトルは人生であまりにも多く目にしてきた。

 彼女は、どんな顔で、どんな声で、全てを終わりに導くのか。

 ――彼女の優しい微笑みが焼き付いていて、何一つ想像ができない。


「そんなはずがない」


 宇宙から地球を淡々と見下ろし続ける無機質な星々かのような金の光が、彼の瞳の中で揺らめいた。

 離反も、裏切りも、有り得はしない。

 彼女は愛していると語ったのだし、自分は『先生』としてまだ教えるべきことが多くあるのだから。


 そうだろう?



 心の深層に眠る悪魔が、微笑みかける声がした。

 あのブレスレットが輝くたびに消えていく何かが、今日は、もっと。

本番はここからですよ。

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