第二章9 『君が帰る前に』
レナートの力を借りて、アデリナはリチャードの黒魔術行使の証拠になる副媒介を入手した。
あの村はただただ黒魔術の実験のために使われたようで、誰も寄り付かず地図からも消されたその村には監視も付いていなかった。
だから、その副媒介だけは入手しても危険度が低い。
空間魔術で石碑を別空間に投げ入れたアデリナは、深々とため息を吐いた。
「……本当に、反吐が出る」
人を利用する自分も中々だとは思うが、それでもリチャードほどの非人道的行為は真似できないしそもそも思いつかない。
早く、この計画が終わったらいいのに。
リチャードもセリーナも、そして自分も、揃って罰を受ける。
――そんなハッピーエンドを、夢見ている。
〇
あの日から悪夢のように何度も脳裏をよぎっていた光景が、今日は自身に優越感さえもたらした。
滲み出る笑いを隠しきれず、くくく、と声が出てしまう。
口を押えても、三日月の形になる目が全く嘘を吐けない。
『――お断りするわ、ホーネット公爵』
『――わたしたち、カレリナ公爵家と。同盟を組んでくださる?』
『この同盟申告が本気であることをお約束いたします』
妖艶に笑い、颯爽と宴会会場を闊歩する愛する女の姿が、何度も何度も脳裏に描かれる。
あの日、アデリナはリチャードの手を取らなかった。
あろうことか、心底虫唾を走らされる男に手を差し伸べて、見たことのない微笑みを浮かべていた。
何たるあり得ない事の運び方か。
リチャード・ホーネットがあの男に劣る点は何一つ存在しないはずだ。
彼女への愛も、彼女への気遣いも、何一つ負けはしない。
愛の言葉の一つも吐けやしない、彼女の心に寄り添えもしない、冷酷で無価値なあの男が選ばれる理由はないはずだった。
何年も昔に打ち負かした男と彼女が肩を並べるなど、あってはならない。
――だがその焦燥と憤怒と心配は、杞憂であったようだ。
「お前ごときが……彼女の隣に立てる可能性なんて最初からなかったんだよ」
未来は正しく進んでいる。刹那の間だけ試練が二人の前に横たわっていたが、もはやそれは退けられた。
いつかこの頭に王冠を輝かせ、彼女と生涯を共に暮らす。
その夢が叶う時間が、刻一刻と迫ってくるような感覚に、リチャードは優悦の笑みを浮かべてから高笑いを響かせた。
〇
「――アデル、君が帰る前にもうひとつ頼みがあるんだ」
アデリナに許された訪問期間は、そう長くなかった。そもそも駐ファンドーリンの駐在人であり、外務代表の事務も担っている彼女が、そう何度も長く仕事場を留守にするわけにはいかないのだ。
彼女が帰る少し前に、リチャードはすかさずその要求を申し入れた。
前を歩くアデリナが振り返り、月を吸い込んだかのような魅惑の光を放つ眠たげな瞳が悠然とリチャードの姿を捉えた。
首をかしげる彼女の美しさに、一瞬息を呑む。
――もうすぐだ。もうすぐで二人の世界がやってくる。その時は。
「頼み?」
「――帰らないで欲しい」
「……どういうこと?」
アデリナはすぐに、彼の言葉が字面のままの意味ではないことを悟る。
彼女が自身の真意に気づいたことを理解したリチャードは、恍惚を笑みとして顔に浮かべる。
壁に寄りかかったアデリナに、リチャードは服の中から取り出した紙を見せる。
「……」
「見返りは、こっちに」
「……」
もう一枚、紙が重ねられる。
そこに記された文字をじっと眺めたアデリナは、顔を上げてリチャードの表情を観察した。
何の感情も読み取れない飄々とした笑みに戻った彼が、何を考えているのか。
――当然アデリナの計画からすれば、願ってもない事だが。
ここまですんなりいくものだろうか。
それとも、今のところ利益と天秤にかけた時に、利益の方にまだ傾いているからだろうか。
その上で、自己中心的な愛が彼を盲目にさせているのか。
両方かもしれない。
何せリチャードはアデリナと完全に両想いであることを疑っていない。それが当たり前だと考えている。
それを利用したのは自分だが、いざ順調に事が運ぶと戸惑いを隠せない。
「……君が頷きさえすれば、オレの手で新聞で大々的に発表するよ」
「――」
私情か、それとも義務か。
かつて、アデリナはその天秤の中間を選んで、場をやり過ごした。
今度は、そうはならない。
そしてその決断がもたらすものへの覚悟は、とっくに決まっている。
〇
『速報:アデリナ・カレリナ外務代表、一時的な駐ホーネット領駐在人に転任!!』
『カレリナ公爵領とホーネット領が強固な貿易協定を締結! 交流の加速がもたらすものとは?』
『両公爵家、一転して友好の兆し! ファンドーリン公爵家はいかに??』
『号外:ホーネット公爵家がファンドーリン公爵家との貿易中断を発表、リチャード・ホーネット公爵への突撃インタビュー!!』
〇
新聞を握りつぶす音が、嫌に部屋に響いた。




