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第二章8 『レナート・ヴァイマン』

『――あんたって、生きてる価値があるの?』


 ――サンドラ・ラミレス伯爵令嬢の腕に輝くそれを見た瞬間に、レナートは胃がひっくり返りそうになるのを感じた。

 その少女の聞くに堪えぬ暴言も怒りをあらわにするには十分だったが、それよりもレナートは半ば本能でサンドラに剣を抜いた。

 頭の片隅に残っていた理性が、彼女に剣を突き付けはさせなかった。


 冷や汗がぶわりと溢れ出る。

 耐えがたい悪寒に震えるレナートは、しかしその妖しい光から目を離すことができない。


 あの時、自分の村の幸せを、全てを壊し切った光。

 自分が愛する地から逃れざるを得なかった、破壊と狂気の光。

 自分が愛して、自分を愛した人たちの歪んだ表情が、有り得ない言動が、恐ろしい速さで頭の中を巡り続ける。

 ――あれが黒魔術であったのだと、今になってようやく理解した。



 荒れた土地、枯れた草。一面の黄土色の世界が、寂寥感を伴って広々とレナートの視界に映る。

 傾き壊れる家々と、縦横無尽に生えている雑草。周囲の建物は手を触れたら崩れてしまいそうなほど脆く、地面は舗装が砂利と草によって覆われ、道路の形を失っている。

 歩きにくい地面を、一歩一歩、神聖な儀式を執り行うかのように踏みしめて歩を進める。


 アデリナとレナートの間には空気の音が聞こえそうなほどの沈黙が下りていた。

 廃れた家屋、生い茂る雑草、空気に舞う砂は視界の全てを埋め尽くしているが、何せ人気を微塵も感じない。

 廃棄されて数十年経った廃城と同じくらいの惨状ではないか、とアデリナは思う。


 どの建物に誰が住んでいるのか今でも把握しているレナートが、諦めず一軒一軒建物を訪ねて回るのを、ただ見ていることしかできない。

 彼はある一軒の建物の扉を押し開いた。今にも倒れそうな脆い扉が、錆び付いた鉄の不協和音を奏でる。


「――おばさん? メアリーおばさん」


 静かな声が呼びかける。だがその声は反響し、誰にも届いていないことが二人には分かった。

 部屋の中の埃の量に、アデリナは思わず顔をしかめる。

 数年以上は間違いなく人が住んでいないだろう。レナートの顔に焦燥感が募り出すのを、アデリナは憂うように見つめた。


 その家を出た後、レナートの足の動きがやや速くなった。

 村の奥へ。もっと奥へ。背筋が冷えるほどに静かなこの場所を抜けて。『彼ら』の存在を、確かめるために――。


「――おやまあ、レナートじゃないの」


 もう本当に誰も住んでいないのでは、とアデリナが思い始めたころ、ひとりの女性がレナートに声をかけた。

 老婆とは言えないが、若いとも言えない女性。その顔には、人生が刻まれている。若いころはきっと、波乱万丈な人生であったことだろう。


 救世主に巡り合ったかのように、レナートはその女性のもとへ走った。


「リンダさん、父さんは、母さんは……! それに、メアリーおばさんや叔父さんは、隣のウィリアムさんも、みんなは……!」


「レナート、落ち着きなされ」


「だって、誰も、誰もいない……!」


 表情はやや歪んでいるくらいだが、半分泣きつくような口調でリンダに詰め寄るレナート。

 カレリナでは見たことのない彼の様子に、アデリナは彼が本当に故郷へ帰還したのだと勝手ながら実感してしまった。

 故郷ふるさとの地は、母なる大地だ。

 いくらその地から離れようとも、帰ってくれば自分は変わらず子供のままだ。


 レナート、と。

 慈しむように、懐かしむように、目を細めて、リンダと呼ばれた女性がその名を呼んだ。

 その瞳に宿る言葉にしがたい感情に、二人とも息を呑んでしまう。


「――あんたの父親は、あそこ。あの丘の上にいるよ。数年前から、それが習慣なのよ」


「ジェームズやロバートは? それにパトリシアだって……」


「とっくに出て行ったさ。まだまだ理性が残ってる方だったからね。とはいえ、ホーネットに忘れられたこの土地はもう大丈夫だよ。もう」


 ゆるゆると首を振って、リンダは重い口調でそう告げる。どうやらホーネットが狙っていた効果は達成されたのか、もう黒魔術は発動されていないようだ。

 ふと、アデリナはリンダの手が震えているのが見えた。悪夢を追憶するのが、恐ろしいのか。

 ――それとも、黒魔術の後遺症は今でも彼女を苦しめているのか。


 レナートはしばし何か言いたげに唇を震わせてから、父が居ると示された丘の上を見上げた。

 かつて仲良しだった近隣の人々はどこへ。親戚たちはどこへ。そして何より母はどうしたのか。何一つリンダは明かさなかったが、ある意味それで十分だった。


「――行きな、レナート」


「わたしはここで待ってるわ。行って来なさい」


「……はい」


 リンダとアデリナの強い視線に背中を押されて、レナートは頭を下げてから駆け出した。



 二十数年前。レナートは村長の息子として、人口の減少に悩まされる村の期待のもとに産まれた。レナートに苗字があるように、ここは没落貴族が作った村だと語り継がれている。

 ホーネット領の中では辺境に近いこの地はあまり重視されず、日々の暮らしは厳しいものがあった。

 その中で囲われ、愛され、守られてきた彼であったが、口数が少なく、感情の動きがはっきりしないので、常々多くの人を困惑させていたりもした。


「――なぁ、オマエなんで全然喋んねぇの?」


 近所のウィリアムが育てている数本のミカンの木。その中心にある樹木は、決まって村の『三バカ』の集合場所だった。

 勝手に摘み取ったミカンを頬張りながら、ジェームズがレナートに尋ねた。

 レナートはゆっくりと首をかしげて、その問いを咀嚼する。まるでその意味が分からないと言うように。


「……分からない。どうしたらいい?」


「どーしたらいーって。そりゃーお前次第だろー。あれだ、恋愛でもしてみたらいーんじゃないの?」


「恋愛?」


「村一番の華、パトリシアちゃんとか! オマエ気になんねぇの? マジで? ほんとに人間かオマエ? この村で一度もあの子のこと好きになったことがねぇのオマエくらいだぞ」


 ロバートとジェームズがぐいぐいと詰め寄ってくるが、レナートは困惑するばかり。

 確かにパトリシアは女子の中でも男子の中でも大人気な副村長の娘で、何ならレナートとの婚約の話も出ている。

 そのうえで彼女が気にならないのはおかしいと、ジェームズは常々彼に文句を言っていた。


 恋愛どころか、楽しいや悲しいさえよく分かっていないレナートは、今日も眉尻を下げるばかりで明確な答えを出さない。

 ジェームズの食べたみかんの皮が増え始めたところで、遠くから人影が見えた。


「やべえ! ウィリアムのジジイだ! 逃げるぞ!」


「おいジェームズ余計なことゆーなってー! あっレナート早くしろよー、レナート!?」


「……? いや、なんか変」


「「は!?」」


 杖をついているとは全く思えぬ足で疾走してきたのは、間違いない、ウィリアムであった。

 みかんの皮を慌てて片付けながらずらかろうとする二人だったが、レナートは座ったまま動かない。彼の抜群の視力には、ウィリアムの焦る表情が映っていたからだ。


 それに、向かってきたのはウィリアムだけではない。

 丁度話に上がったパトリシアも、その小さな足を精一杯動かして走ってきていた。


「みんなー! 大変なのっ、本当に大変で大変なのっ。あのね、あの、お役人さんが来てるのっ!」


「そこの三バカ、村の広場に集合だ! 遅れたら大目玉食らうぞ! あとジェームズは後で大目玉食らわす!」


「うぎぃ、ごまかせなかったぜ……」


「あー、とりあえず早く行こーぜ。俺は大目玉食らいたくねーもん」


 こく、と頷いてレナートは彼らについて歩いた。

 何の疑いもなく役人を迎え、いたずらっ子は大目玉を食らい、子供たちは大笑いをし、たくさん遊び、それぞれの親に呼ばれて夕飯を食べに家へ帰る。

 いつもと変わらない日常。

 村の誰もがどこからでも見えるように、あの丘の上に設置することを命じられた怪しい光を放つ墓標に似た石だけが、いつもの景色に亀裂を入れていた。


 レナート・ヴァイマンは知らなかった。

 それは景色に変化をもたらしただけではなく、この村の根幹を揺るがす地獄への呼び声であったということを。



 ――異変が始まったのは、あれから数ヶ月後のことに過ぎなかった。

 村の惨劇の火蓋を切ったのは、パトリシアの父親つまりは副村長への襲撃事件であった。


 村の会合でどうやら意見が合わなかったらしく、それで副村長の意見に反対した者達が組織され、副村長の家に火を放ち彼とその一家の殺害を試みたのだ。

 和気あいあいと村を経営していた自分たちには絶対にありえないことだった。

 どんなに大きな喧嘩が起こっても、放火や殺害などはみんなの頭をよぎりすらしないのだ。いくらレナートでも、それは知っている。


「だから、俺にその座を譲るべきだと言ったじゃないか。俺たちが狩りに行って村を維持してるってのに、なんもしてねえお前らに村の行く末を任せられっかよ」


 松明を掲げて歪んだ笑みを浮かべ、副村長の身体を燃え上らせた、その男。

 ――優しかったレナートの叔父の知らない顔に、陰で見ていた彼は、ただただ震えることしかできない。


 その後の記憶は、凄く薄い。

 あまりの衝撃に体の自衛本能が働いたせいか、その前後の記憶は今でもはっきりとしていない。


 ただ、ジェームズとロバート、そして村長の力によって、パトリシアは救出されたことは知っている。

 それがあの少女にとって慰めになったのかは、分からない。家族を全員失って、そしてそれが仲良しだった近隣のせいで、そんな現実を目にした彼女がどう考えていたのか、レナートには分からない。


 あの後、村は二分された。

 叔父を支持する勢力と村長を支持する勢力に分かれて、永遠かと思われた諍いが長く長く続いた。

 睡眠もままならず、常に戦いの音を耳にしながら生活するレナートの心は、静かに静かにひび割れていった。


「ああ……」


 夜、眠れないときには、外に出て冷ややかな風によく当たりに行った。

 無感情で冷酷な風がこの体を吹き抜けると、改めてこれが現実なのだと実感する。


 ロバートとジェームズは、その両親が叔父派であったせいで、レナートとは必然的に敵対関係になった。

 それから、もう二度と二人に会ってはいない。

 

 感じたことのないもやもやした心を抱えたまま上を見上げると、あの妖しい墓標がいつもと変わらず目に入った。

 銀色の輝きを放っているのに、何故かレナートの認識にはどす黒く映るその恐ろしい物体。

 見ているだけで悪寒が走ると言うのに、村の人間は何故かそれを崇拝して、毎日三回跪いてそれに向かってお祈りを捧げなくてはならないのだ。


 ――帰ろう。

 そう思って身を翻した途端、腹部に何かがぶつかるのを感じた。

 それが何なのか認識する前に、その部分から暖かさがゆっくりと広がっていく。痛みはなかった。それがかえって非現実的だった。

 錆びた扉を動かすような速度で、レナートは目の前の人を見つめる。


 涙と鼻水を垂れ流しながら狂ったように笑い続けるその女は、良く見知った人間で。


「――かあさん?」


「メアリーがね、言ってたのよ、ふふふふふ。あんたさえいなければ、昔のような関係に戻れるって。あっはははは。子供って邪魔なのよね、そうなのよ、昔はもっと幸せで、ふふふふふ。だってあの人変なのよ、あは、私のこと忘れたみたいなの、あははは、彼女がいっぱいいるなんて変でしょ、私が妻だって言うと怒るの。ふふふっ。あの人ほんとにあの女の人たちみんな好きなの? あれ? 妻は私よね? アハハハハ、あれぇ???」


「……」


 ――帰ろう。

 頭を抱えて狂笑と意味をなさない言葉を垂れ流すその女を置いて、レナートは今更痛み出した腹を押さえながら、一歩一歩自宅への道を歩いた。

 流れ出る血は、まるで自分の命が零れていくかのようで。

 霞む視界がもしいつか真っ暗になったら、自分は死ぬのだろうか、とぼんやり考えた。


「金ぇ!! 金だぁ! 金をよこせ!! あぁ? おまえも金か?? よこせぇー!!」


「だめよめよめよだめよよよよ、絵を描くの絵を絵をうぅ、天地が回ってるの、わかる?」


「全部嫌いだ全部無理だ全部壊す壊す壊す恨めしいぃいああああああ」


「――」


 一心不乱に金銀財宝をかき集めようと凶器を振るう男、絵の具をまき散らしてぐるぐると回る女、人を刺し建物を壊し無限の破壊欲を露わにする青年。

 そのほかにもたくさんの見知った顔が、それぞれの狂い方をしながらかつて平和だった街を徘徊している。


 ずるずる体を引きずりながら、レナートは自宅へ一心不乱に進んだ。

 何故自宅へ向かうのか、その理由は見つからない。

 そこが自分の家だから。そこが自分の帰る場所だから。そんな言葉を、当時のレナートは持たなかった。


「父さん――、あぁ……」


 父親。

 あれをそうだと呼んでいいのか。


 かつて真面目で、愛妻家で、家族にも仕事にもしっかりと愛を注いでいた父の姿であるとは、とても思えない。

 父の周りにいる女は何人だろうか。数えようにも、視界がぼやけている。

 あはは、うふふ、と耳を刺すような笑う音。女遊びにかまける父は、もはやレナートの姿さえ見えていない。


 両親に救いがないことを悟ったレナートは、体の力がふっと抜けるのを感じて地面に座り込んだ。

 一体。一体。何がどうして、こんなことになってしまったのか。

 ふつふつと胃の底から湧き上がる感情を、怒りと呼ぶ。背筋を震わせ冷や汗を流させるその感情を、恐怖と呼ぶ。


 ――死ぬ。理不尽に死ぬ。訳も分からずに死ぬ。きっと、そうなる。


「――レナート!!」


「……?」


 大人しく失血するに任せていたレナートの耳に、女性の声が強く響いた。

 ぼんやりしていた意識が、なんと引き戻された。

 茶髪で三つ編みをしたその女性――リンダは、村長一家の使用人を任されていると同時に、優れた能力を持ち村で確固たる地位を築いている才女だ。


 リンダは治癒魔術の使い手である。当然使おうと思えば想像力の限りどんな魔術でも使えるが、要は向き不向きというやつだ。

 レナートは剣術の天才であったが、リンダは魔術の天才であった。

 彼女は魔力を大量に活性化させ、全力でレナートに治癒魔術を施した。


 ふと彼女の顔を見れば、狂っているような様子は見当たらない。

 確かに、狂い方にも個人差があったようにレナートには見受けられる。自分にはあまり効いていないのもその証拠。

 ――いや、そもそも自分は正常なのだろうか?

 狂っている人間は自分が狂っているとは思わない。なら自分は、どうだろうか。


「レナート、ここから逃げるのよ。もうそれしかないの、それしか、救いがないの」


「逃げる?」


「たくさん治療して回ったけれど、もうみんな、だめ。かろうじて理性のある人たちも、もう閉じこもってしまった。この村はもう駄目よ。……レナート、産まれた時からずっと、この村の希望。――貴方がどうか、この村の命を、繋いで……!」


 ぼろぼろと涙を流すリンダが差し出した手を、レナートは取ることを選んだ。

 彼らはどうするのか。村はどうなるのか。そんなことは、一切聞かなかった。

 何かの不可抗力に押されるように、レナートは走った。

 ただ、走った。

 

 村から足を一歩踏み出したその時に。

 レナートの未来をあざ笑うかのように、墓標が銀色に妖しく輝いたのが、彼の視界を掠めた。



 故郷を失って、あてもなく流浪して、酸いも甘いも噛みしめて、レナートはようやく持つべきだった感情を思い知った。

 故郷の日々を、あの平和と日常を『幸福』と呼ぶのだと。

 そして自分はその幸福なふるさとを、心の底から愛していたのだと。


「――レナート・ヴァイマン。良い名前だね。私の元に、来ないかい?」


 墨を溶かしたような、柳がそよぐような、神秘的で飄々とした雰囲気を放つその男の手を取ったのは、故郷に対する罪悪感だったのかもしれない。

 自分が苦しむ故郷を捨てて一人で逃げたのだと、ようやく理解した。

 でも、自分は確かに故郷の全てに託された唯一の希望であったのだ。


 ――だから遠く離れたどこかで、それに見合うだけの幸福を見つけなければならないと。そう、考えた。

 不器用で、少しだけずれたレナート・ヴァイマンが、人生に初めて出した答えだった。



「――死んだんや。お前の母親も、あの愚かな叔父も、メアリーもウィリアムも。あの腐れた飾りの効果が無くなったその数年後になぁ。これは、そいつらの墓や。ここでしか、もう俺たちぁ団らんできんでなぁ」


 少しだけ不思議な喋り方をするその老人は、アイザック・ヴァイマン――父に間違いなかった。

 丘の頂上に立つ彼は、杖を突いてはるか遠くを見つめている。

 レナートが背後から接近しているが、彼の方を振り向きもせず、確かめもせず、アイザックは息子の来訪を確信していた。


 丘の上には、いくつか盛り上がった土があった。

 アイザックの言う通り、それはかつて村に生きていた彼らの墓なのだろう。

 代わりに、あの悪しき墓標はもうそこに立ってはいなかった。

 かつて中心に立っていたそれは、今や端っこで寝かせられている。かつてのような眩い光は、もう放っていない。


「あれがぁ、目的なんやろ。分かってるんで。もう少しでも早く来てりゃぁ、お前の母親にも会えたろうがなぁ。三日前や、丁度三日前。遅かってんなぁ」


「――父さん。もう、いいのか」


「あの後なぁ。数年かけて村は徐々に正気を取り戻した。自殺する奴、出て行く奴、黙々と贖罪する奴、本当に狂いだした奴。色々居ててなぁ。でももうここには、俺とリンダしかおらんで」


「……」


「あれをさっさと回収して、飯にせぇ」


「……うん」


「――若い衆、故郷には度々帰れぇや」


「――」


「なんも無くなってもうたら、遅いかて。……遅いかてなあ……!」


 しゃがれた声。おぼつかない足取り。それでも決して弱さなど見せぬと言うように、アイザックは杖を突いて丘を下りていく。

 レナートの横を通り過ぎた時に、彼はアイザックの表情を見た。

 それは、哀愁なのか。それとも、諦念なのか。


 ――どちらにせよ、それは終わりに近づいた者の最期の賛歌であった。



 かつて、共にミカンの木の下で語り合った。

 その時は、一日がまるで無限のように長いと錯覚していた。一日中空を眺めることだって余裕だった。

 ミカンを盗んで、追いかけ回されて、たくさん痛い目を見た。

 ロバートと、ジェームズと、レナートの三人合わせて、村の『三バカ』だった。

 馬鹿みたいに笑い合う子供の姿が、幻のようにちかちかと目の前で揺らめく。


 ミカンの木は枯れていた。

 二度とミカンの実をつけることはないだろう。

 周囲には雑草が生い茂っているが、その木には生気がまるで見当たらなかった。

 まるで、村の終わってしまった歴史を象徴するかのように。

 まるで、在りし日々を葬った、墓標のように。


 もう夕方だ。この時間になれば、そろそろ母親がご飯よと呼びに来ていた。

 まだ遊びたいと渋る子供たちが怒られている横で、手を繋がれて家へ帰るのだ。

 ジェームズを追いかけまわしたウィリアムが肩で息をしながら、次は承知しないぞと幾度も言った言葉を投げかける。


 夜、こっそり抜け出して、メアリーおばさんの作ったお菓子を貰いに行く。

 露見して怒られたり、バレずに夜食を食べたり。

 色んな日があって、色んな楽しみがあって。

 優しいメアリーおばさんは断れないと知っている村の親たちは、彼女の家に押し掛ける自分の子供を強めに叱る。

 夜でさえ叱られる子供たちを見て、村一番の優等生パトリシアはため息を一つ。


 ――まったくもう、ほんとに悪い子、とっても悪い子、悪くて悪いんだから。


 優等生のわりに語彙力が全くない彼女の言葉に、みんなが一斉に笑い出すのだ。



 ――それはとっくの昔に過去になってしまって。

 二度と繰り返されることはないのだと、枯れたミカンの木が痛々しくそれを証明しているようだった。


「……また、帰る」


 涙を流さないよう唇をかみしめるレナートを見上げるリンダが、くすくすと苦笑交じりに笑った。

 かつてと同じような毅然とした目をした彼女が、口を開いて。


「――美味しいご飯を作って、待っているわね」


 いつになるかも分からない、あまりに不確定な約束を、した。

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